語られたストーリー
2013.04.29 ばあちゃん、ゆるいなあー 語り手 (女性 80歳 2012年取材)

―名前と生年月日を教えてください。
中村千枝子です。昭和六年五月十八日生まれです。大阪の鶴橋ってところで生まれたんや。

空襲
―おばあちゃんの人生について語ってください。
二歳の頃に、二十五歳の若さでお母さんがなくなったの。だから、母の顔も記憶がないし、父親の母方に育てられたけども、まあ父は、遊び放題。
―兄弟はいなかったの。
腹違いのお兄さんとおったけども…。本当の兄は死んだから、義理の兄と二人だったの。そのあと、父は再婚して、私が七歳のときにね。そうして生活しとる間に、だんだん戦争が激しくなって、父親が大阪で商売していたけども、仕事の関係で神戸の川崎造船所へ勤めて。
空襲にあって、父が三重県出身だから三重県に帰ることになったけども、電車は名張で止まっちゃって、名張で一泊して、それから父親の在所の三重県に帰ったと。叔父さんたる人が家を探してくれて、まあ、伊勢におったんだけど、そこでも空襲にあったの。それでも家はまあまあ焼かれなんだの。
―空襲にあったときの状態とかは覚えてる?
空襲にあったときは、ちょうど空襲警報が発令されてから、私らは学校に避難したんだけども。ものすごい数の焼夷弾だもんで、もうみるみる、焼け野原になって。かろうじて、本当によう生きたなって思うくらいだわな。その途中で、その辺もう死骸の山だわ。かろうじて伊勢に帰ってきたけども。
終戦になって、そうしたところが、お父さんが全然働かんときたわ。働かんし遊んどるし、そこへママ母だし。もういじめられたり、いろいろあって、嫌んなって、集団就職でここに出てきた、いうことなんやわ。

ふた股
―それからはどうなったの。
まあ寮生活だで、おとなしい子は部屋で編み物したり、いろいろしとるけど、私は…(笑)。
―なになに?
私はあの当時は、片目がちょっと、七歳ぐらいのときに病気したもんで、あんまり見えんくて。細かい仕事しんかったもんで、遊びほうけとった(笑)。
寮生活の時間が決まってるんだわ。八時とかなんとかな。だけど、一人で出てけれんもんで、友達と一緒に出てって、また遊んで帰ってきたら、またその友達に門のところで待っとってもらうと。そういうふうにして上手にかい潜って出てきてた。そんで男友達もできて、遊びまくっとった(笑)。
―どういうとこで遊んでたの。
どういうとこってまあ…映画だわな。この辺だったら、だいたい名古屋行ったり、一宮行ったりとか…まあそういうことだわな。不思議なもんで、ここで見つかるとやだで、とか思って、一宮行ったら、そこでばったり会うんだわ。ばったりと!
―誰に。
…ふた股かけとったから(笑)。
―ええええええ!!!!
ある人と映画館行ったら…そうそう、六輪(ろくわ)に友達おったから、その友達のところ行って。そこに違う男友達がおって、「今からどこ行くの」言うから、「うち今から一宮行くんだわ」、言うたら。ほんだらついてくるんだわ。ついてきて映画みとったら、付き合っとる男性が、また映画館の中でばったり会うんだわな~。あんな不思議な!
―なにそれ(笑)。
ほんで、もうあとからついてきた男性は、ああ、この人、彼氏がおるんだって思って、帰ってったけども。そういうこともあったし、二、三人も付き合っとった。
―二、三人も(笑)。おばあちゃん!!!
だけどがー、おじいさんとの出会いもまた面白いんだわ。

運命の出会い
私の部屋におる子の知り合いの人なんだけども、農協のトラックに乗っとって、私がそこの眼科に行っとって。帰りにトコトコと、こう歩いとって、そしたらフーッと車が止まって。「乗せてったるわぁ」って言ったときに、みたら友達の知っとる人だわぁって、気づいて。その隣に座っとったのがおじいちゃん。
三人座れんもんで、おじいさんがトラックの後ろにパッと乗って、私が乗せてってもろうて、今の工場で降ろしてもろたんだわ。そして、またしばらくたって、おじいさんとバタっと会うんだわ、なんも約束もしてないのに。
―運命的に。
うん、運命的に会うんだわ。あれっと思って、今度は一対一で会って、そうこうしとるうちにまた会って。それから付き合いが始まって、そうしとっても、ふた股かけてたんだけどね(笑)。
―また、ふた股かけたのかっ!
うん(笑)、一人の男の人と映画の待ち合わせしとって、まあいいか、もう断ってまーっとるで、とか思って。安心して駅へ、八時か九時に帰ってきたら、駅で待っとるわけだわぁ、今のおじいさんがな。だからな、この人、ものすごい誠実な人だなーって思って、びっくりしたわなあ。ほんでまぁ、付き合っとるうちに…私もあのとき、わりと病気がちだったから、会社辞めて伊勢に帰るってなったときに、しばらくして、僕も伊勢の方で就職するわ言うて。
―おじいちゃんが(笑)。
うん。自転車に荷物いっぱい乗せて伊勢にきたんだわ。何時間かかってきたかなぁ。ほんでしばらく伊勢におったんだけど、仕事がなくて、こっち戻ってきたんだけども。まあこの人、ものすごい誠実な人だなぁ思って、心が傾いていったわけよ。
―そのときはもう、ふた股はしてない。
もうそれからはしてない!(笑)。だからあの人はね、純情な人。遊んでない人。若いときはね、レコードあるでしょ。あれにね一生懸命になっとったから。また顔もええ男だったもんで、女から見たら、彼女おるなって思われてたんじゃないかな。
それが、運命的な出会いで、トラックでパッて会ったんだでなぁ。なんも今みたいに電話がないのに、それでも会うんだからなー、不思議だわ。それから、こういう純情な人は裏切れんなーっと思ったから、もう辞めた。

大騒動
 ほんで、だんだん結婚の話になってって、でも今みたいにアパート借りるとかそういうことやらんから。農家だから部屋がようけあるんだわ。9つぐらい。だけどおじいさんの部屋は四畳半の部屋で、今考えたら二人で四畳半のところにおったんだよ。他の8つの部屋は、兄嫁さん夫婦でわけて使ってた。それで1年ぐらいずっとおったけども。
ある日小姑がおるもんで、下の妹が弁当作ったときに、まな板の上におかずを置いとって。その後始末してかなんだのを、兄貴の嫁さんが見て、私のせいにされて。「なんや片づけてないがあ」って言ったもんで。それ聞いて、「私にかずかっとるわー」〔なにもやってないのに、自分のせいにされた…という意〕言うたら、おじいさんカッと怒って、棒で兄貴の嫁さん殴りに行ったんだよ。
―えええええ!
それから大騒動になって。ちょっと落ち着いたけどがー、家出よういうことになって、部屋借りて生活するようになった。それまでは一年間13人。考えられないでしょ、今だったら。だって兄貴夫婦、おじいさんおばあさん夫婦、小姑何人おる? 5人か6人おったがな。そこにポンって入ってって。
今みたいなお勝手したことねぇ。それが大きなお釜でご飯炊かなあかんし、それにきしめん、明けても暮れてもきしめんだわ。あれをゆでて、うちうどん嫌いやろ。あのきしめんをゆでるの難しいんだわ。ぺたっとくっついて。
だけどそういうことがあって、やっぱり新婚だもんで、自分の嫁さん可哀想だ思って、兄貴の嫁さん殴りに行った。そりゃえれーこった。だけど、お兄さんがおじいさんより弱い人で、普通だったら、自分の嫁さんが弟に殴られたら、怒るわなぁ。でも喧嘩は、始まらんかった。まあ大騒動だったけども。こんなことじゃいかんで言うて、うちら2人おい出して。
もともと無理な話だわ。今だったら、同居みたい、しやへんわ。なんか知らんけど、私も、ママ母だったし家帰りたなかったし。まあ18歳でここに来て、二年間はおとなしかった。20歳まではおとなくしくて…男友達いなくて(笑)。ハタチすぎて急に遊びだして…(笑)。あっちもこっちもふた股ぐらいかかって…最後はこのおとなしい人だ…(笑)。落ち着いたのがおとなしい人だったんだ。

出産
ほんで1年して、ここのお父さん生まれたでしょ。ほんで洋服のまとめの仕事してて。紳士服の。全部ミシンでぬった後をまとめてく仕事。そんで初めてのお産のときは、どこでもこの辺は実家に帰るんだわ。だけどママ母だもんで、私、家帰れへんかって。
―家が嫌だったもんね。
うん、ほんで生まれてから、一人目のときは自分も寝とればいから寝とって。二人目のときは、もう上の子が動いとるから助けてもらわないかんで、お母さん来てくれて。三人目はうんと歳が離れてるから楽だわなぁ。そんなことで、今はほんといいよ。息子もおるし、まあそれに嫁さんいうのはだいたいなぁ、ダンナの母親と同居みてぇしたないけども、ここのお母さんは性格ええし。私も遠慮すること嫌いだし、お母さんもそう気つかわへんやん。だから、そうあんまりもめごとってあれへんやん。
―ないねー、実の娘みたいな感じだよね。
まあそんなことでございますけども…思い出すのは食べ物ぐらい。食べ物はあれだわ、もー本当にひどかったわ。今の子に言ったって考えられんやろ。とおらんわ。砂糖はないし、とにかく兵隊さん兵隊さんで、みんな外地送ってくもんで、日本はなんもない。
―何食べて生活してたの。
麦ご飯とか、ご飯の中に黄色い漬物細かく切って、お米の中に入れて炊くとか。ご飯炊くのに今みたいに電気釜じゃないから、焚き物でこうやるわけでしょ。だから今の子はあんなもん食べんわな。雑炊もしらんわな。
雑炊いうと味噌汁の中に具がはいっとるわな。それん中にご飯を入れると、かさが増えるわ。そのために雑炊やるわけ。それにうどんの麺あるでしょ。あれをポキポキって折って、お米あろて中に入れて炊いて、なんでもかさを増やす。とにかく、量を増やさなあかんかった。だけど粟だけは食べんかったなー。
―3人子供ができて印象に残ることは。
子供っていうと、女の人でも兄弟がたくさんおると、一番上の子は母親みたいな気で、下の子を面倒みるわなぁ。だけど、私は兄が父親とあわんもんで、九州行っとるもんで、一人っ子と一緒で、子供そう好きじゃなかったけども。生まれて顔見ると、やっぱり可愛いわなぁ。ここのお父さんは一番大きかったなー。3500くらい、目方が大きかった。だから本当になかなか出にくかったけどなぁ。

ギャンブラー
―生活してるときは。
生活してるときはまあ、貧乏いうか普通かなぁ。借金して歩かなんだだけよかったわ。私の父親のときは、大阪の商人っていうのは、夜通し(宵越し)の金がなくても、明日のお金がなくったって、今日おいしいもん食べたい。私の父親がそうだった。えーもん着たいし、ごっつぉ食べたいし、大阪商人はそういうふうなんだわ。だからお金ないづめなんだわ。
神戸の造船所で働いとるときは、成金でお金もってた。だけど自分の友達が大阪から、焼かれたから帰ってくるが。そうすると、うちの父親は、「さいやん」(名前)言うの。「さいやん、さいやん」ゆうて、夜来て博打(ばくち)やるわけよ、花札。座布団の上にこう花札おいて、こうやって、こうやって博打やるわけ。夜9頃になるとやるの。あれ嫌だったなー。
―なんで。
博打なんかやだがー。勝ったらお金もらえるゆうわけだが。今でいうギャンブル。他にも競輪、競馬が好きだもんでお金借りて、とにかくうちの父親は賭け事が好きで…。そうそう、あとおしゃれだなぁ。着物着て。中村いう名字だもんで、「なーさん、なーさん」だわ。母親が死んで、私ちっさいときは、あっちからもこっちからも私をくれ言う人あったんだわ。あったんだけど、私だけ絶対よう離さなくて、どこ行くにも連れて行ってた。
とにかくねぇ、やらんことなんでもやる。泥棒やらんだけ。自分の兄貴の嫁さんだろうが、兄貴だろうが誰でも殴るしね。殴らんの自分の母親だけ。5人兄弟の一番やんちゃ坊主。お兄さんお姉さん弟妹おって真ん中なんだけど、父親が。
―全員殴ったの。
そうだよ。やんちゃ…やんちゃ次男だな、ありゃ。だけど不思議と私だけは可愛がられたな。兄貴は…私のお兄さんいうのが、今でいうできちゃった結婚なんだけども。それを反対されて、女の方は子供をとらなんだの。ほんでこっちが受け取って、おばあちゃんが育てたの。
―おばあちゃんが育てたの。
うん、だからこのおばあさんいうのが、親のない孫を三人育てたていうんだわ。
―おばあちゃんっていうのは。
父親の親だわ。私にとってのおばあちゃん。私、母親が2歳で亡くなってとるもんで、ずーっと育ててもらったでしょ。お兄さんもそうやって、父親が恋愛しとって子供できて産んだけどが、向こうの母親がいらんいうて、とらんかったもんで、こっちのおばあちゃんがとったんだわ。
もう一人はうちの父の姉さんいうのが、この人がちょっと村の青年に犯されて子供ができて、それを知らんと結婚したら、相手がいらんいうから、おばあさんがひきとって育てたんや。こんな感じかなー。

殺してやりたい
とにかく、こんなこと言うたらあかんけど、こんな親、本気で殺してやりたいって思ったことなんべんもあったよ。でも、それじゃ親戚に迷惑かかるから、これはまあ自分が出よう思って。友達もお母さんが死んでおらんもんで、その人と一緒に18歳のときに出てきてね。
女の子にとって母親がおらんちゅうのは、寂しいことだわ。寮生活しとってもさ、ああ家に帰りたいなー思って泣いたときもあったよ。でもお母さんの顔が分からんのよ。写真だけ2、3枚おいてあったで見たんだけど。二歳くらいのときに死なれたら、顔わからんわな。ほんでもまあ、人生って、小さいとき不幸だと後からようなるんかなぁと思った。
―今は幸せ?
今はええがね。お父さんも性格ええしさ、お母さんもええし、孫もええし。
―そうだね(笑)。
まあ今はこんな年まで生きて、ほんといつまで生きるんだろ。
―ずっと(笑)。100歳超えてもらわなきゃ。
そんな生きなくていいわ(笑)。だから今のことは語ることはない。
―えー、語ることあるでしょ。
今はあんたたちがうまいことやってもえらたら、それでいいわ。今はほんだけど、昔はこんな一戸建ていうか、若い人は家建てるだとかいうから、共稼ぎせなやってけれんのだろうな。昔は、学歴なくたって就職できたし。うちの父親っていうのは、農家の財産はあったんだけど、それも売って極道息子で、丁稚奉公っていう、着物きて前掛けして…。
―丁稚ってなに。
小僧さんか、どっかの商売屋さんの下働きっていうのかな、女中さんみたいなもん、そこで店で使われるの。そこで仕入れられて商いの人になってくわけだわ。大阪はだいたい商いだわ。だけど、大阪いうのは14歳までおったけど、ほとんど記憶にないな。父親が商売やめて川崎造船所に行って…。
神戸の駅降りるとみんな、ずらずら川崎造船所行く人ばっかなんだわ。今考えたら、神戸の駅で降りたらだいたいどの辺に住んどったかぐらいわかるわ。もう神戸の駅も変わったやろうなぁ…。
伊勢は2年しかおらんかったからなぁ…学校も空襲で焼けてから学校いかれへんし、近所に洋裁と和裁を教えてもらって習ったわ。そういうの習って人の仕立てものの服つくるわな。先方へ渡そ思うて、お金もらおうとするわ。はや父親が先にもらっとるでいかん。働かない、そんだけ。私の工賃もらっちゃう。ほんとに働かんし、酒は飲むし、おかず気に入らんと、ダーッと飯台ひっくり返すんだわ。丸いちゃぶ台だからなぁ。こんな父親はいらんと思った。
だけど、兄貴よか私の方を可愛がっとったわな。兄貴は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」っていう諺があるように、相手の女のほうが親が許してくれんもんで、向こうが結婚あきらめて、こっちがとったわけでしょ、子供を。だから結局兄貴は、可愛がられんかった。兄貴は可哀想にあっちこっちってたらいまわしにされてた。
―昔はいろんなことがあったんだね。
昔はそうだわ、私は父親に殴られても泣かんかったらしいわ。近所の人がいう話では。あんたは強かったんだにーいうて。そら泣いとれんわな、母親がおらんで強く生きていかないかんで。だで、学校でも、私がおるで学校行けへんちゅうて、私がいじめとったらしいわ。ほんで、何人か並ばして、おやつあげてたらしいわ。
―え、おやつあげたの。いじめてたんじゃなくて。
そーいうときもあったり、学校行くときに、なんか私がいじめるから学校行けへんいう子もおったらしいわ。私は今のとこ、大昔だからわかりませーん。もう忘れとる。

おだやかな生活
―そうなんだ! 今はおだやか。
うん、そうでございます(笑)。
―ふふふ(笑)今はいいね。好きなものもあるしね。嵐、毎週みてるじゃん。
嵐かー、癒されるわな。孫がもう嵐、嵐いうとるで、私もみるけども。やっぱりああいう若いエネルギーもらうと癒される。私のおかげで、70代、80代のコーヒー飲みに来る人でもさ、初めは嵐ってなんやいうとったけども。私の話聞いとってほんならみるわいうて、みたら、あっ、癒されるわって言っとるがね。あの5人は性格ええんだって、言っとるわ。
―ばあちゃん、誰が一番好きなんだっけ。
顔としては松潤。でも、相葉君が一番好き。おとなしそうな顔しとる。
―おとなしい人が好きなの。
自分が性格強いから、おとなしい人がええのかな。
―じゃあ、おじいちゃんもそう?
あの人めちゃくちゃおとなしかったなー。あの人はねえ、男の子3人育てても、殴ったことない。でも、殴らん人はくどいんだわ。一緒のこと何べんも言うんだわ。だから、上の息子たち二人は、学校卒業したらすぐ寮生活。ほんだから、大きなったらすぐ出てってまうが、この親父のために、とか思ったことあったなー。
まあいろいろ話してきたけどさ、その結婚っていうのも早くに18、19歳とかで結婚すると、遊ばんうちに結婚すると、結婚してから遊ぶもんでいかんのだわ。だからよく遊んでから結婚しやいいんだわ。
―ばあちゃんみたいに(笑)。
うーん(笑)、私、おじいさんが浮気しようと、なんにもやきもちわかんもん。どこぞの人とカラオケ行ったり、車乗せてどっか連れくとか。そういう連れて歩くことはええんだわ。浮気っていってどっか離れて出ていく、あれは気がちっさい、そういうことはようやらん。
―わからんよ、隠れてやってたかもよ。
してないがねー。離婚してないもん(笑)。あの人はね、騙されても、自分はよう騙さん人だよ。

おじいちゃんとの別れ
―じゃあ、おじいちゃんの病気がわかったときは。
歳いったらね、夫婦っていうもんは一緒の部屋に寝とらんと病気が発覚できんわ。一つの部屋で寝とると、お互いにいびきかくやん。あんたのいびきが大きいで寝れんわいうたら、そんなこと言うけど、おめぇのいびきもえらいがやいうから、お互い別々の部屋で寝とったの。
そしたら、ある日、ここの乳の周りにカサカサにできとるもん見せてきたもんで。デキモンできるとかさぶたできるやん。それかと思って、タコの吸出し貼っとったらいうとったの。そうしたら、別々の部屋に寝とるで、相手の体みいひんし、わからんやん。
そしたらしまいに、膿が出てきて、それが乳がんになっとったの。男で百人に一人ぐらいだわ。だから、「手術せないかん」なっとって、手術する日にちまで決まっとったのに。手術する日は食べていかんのだわ、朝。「せえへん」いうてダダこねてさ。
―おじいちゃんダダこねたの。
気がちっちゃいんだわ、切りたねぇんだわ。ほんで、手術したんだけども。早期発見しんかったでね。あんなまさか乳の周りにかさぶたみたいにできた、あれがガンだと思っとらんかった。あの人もっと生きたかったと思うよ。八十ぐらいまで。だけど、逝く年七十二かな…。一緒の部屋におったら、どういうふうになっとるか見とったけども…。
―私が病んでたときはどう思ってた。
そら、もう可哀想だったわな、高校三年生だったけども、もらい泣きしたわな。なんでああなったんだろ。お父さんに泣いて喋っとってさ…ここでお母さんが頼むから、学校行ってって。親子で泣いとったわ、本当にもらい泣きしたわ。可哀想だったわ。
―半年間行かなくて。
なぁ、うん。あれ本当にそういう病気だったんやろか。でも三月に治るって言ったから。
―うん、三月に治るって断言したら、治ったね。
ね、今その高校生がここ通ると思い出すわ、二年前を。あー二年前あの高校通ったんだ、この道通ったんだって。二年前はこうだったんだけど、よかったなって思い出すよ。
―二年前は、半年ぐらい学校休んでたもんね。補講の期間、ばあちゃんが迎えにきてたことも、覚えてる?

病気は自分で作るもん
うん、学校は、本当は隠すとか、その子辞めてくれ言うんだわ。でも、ここの学校はええわ。他の先生も協力してくれたし。前の担任の先生とかそのときの担任の先生とか。普通だったら前の先生とか来んことない?
―来ないよね、関わらないよね。
関わりたくないわな。先生はなるべく隠そうとするわな。
―今、だいぶ傷は癒えてるんだけど、あのときはリアルすぎて言えなかったこととかあるじゃん。だからあんまり話できなかったけど、おばあちゃんの立場からみて、私はどういうふうにみえてた?
うーん、だけどあのとき私が思うのは、あの年私がおってよかったなと思っとる。私がおらなんだら、お母さんもお父さんも仕事に行かれへんじゃん。お母さんが、あんた一人おいといて会社行かれへんわ。あのとき、私、役にたったと思うわ。こういう子おいて会社行けれんわなって思ったもん。
―毎日泣いて、家におったら危ないよね。
一人おいて行けんわな、なんかあるかもしれんでな。だから、まあ役にたったと思っとる。まあ今はなんかねー、左肩が痛くてね、肩がこったんでもないんだけど、なんもやる気しんのよ。だで今は、ごろごろしたりラジオ聞いたりしとる。
もう今にね、これ一か月になるんだけど、結局自分で病気つくるんやな。ああどこ痛いかな。次ここかなって、自分でそう思ってしまうんやわ。だから、なんかに熱中しとると忘れる。前は、本当のこと言うと、あんたが帰ってくるのが遅いやろ。
―え?
ほんで寝れんようになったんよ。ガチャっとすると、ああ、帰ってきたな思って寝れるけども。だから寝れんようになって、薬飲むようになって。一年ぐらいになるかな。それ、あんたのせいや(笑)。
―私のせいや(笑)。でも最近は、早く帰ってくるようになったことない?
でも、飲み続けたら、後もう先、長ないでええの。
―ほらまた出た、その話!!!!!!!
そんなわけで、まあぼちぼち。
―ばあちゃん、ゆるいなー。インタビュー、ゆるすぎる!
―とりあえずまとめましょう。
人生は山あり谷ありです。はい、一時間たちました。ええとこ、かいつまんでやってくださーい。まあそんな感じですわ。さて、夕飯作らなかん(笑)。
〔二〇一二年十二月〕

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室