語られたストーリー
2013.04.29 見えてきた自分の挑戦 語り手 (男性 55歳 2012年取材)

「教科通信」
【常勤になったのはいつですか】
 常勤という仕分けは、なかなか難しい仕分けなんですけど。非常勤、常勤というのは期限つきなんです。教育界ではね、1年単位なんですね。いわゆる正規採用というのが、それこそ37の年。
【それはここの学校】
 はい、ここの学校。正規採用になってから一番まず大きな影響を受けたのは、まぁ今となっては無名の先生ですけど、水野守廣という方が出してる「教科通信」というのが、3冊か4冊くらいの本になってるんですね。猛烈な分厚い本です、400ページくらいだったかな。
 それはね、まぁ国語というのは何を教える教科なのかとか、教師としてどうあるべきか、ということが綿々と書かれてるわけ。それを毎時間その先生は配って、生徒に訴えかけてるんですね。それを見て、姿勢を正されたというか、なんとなく教師をやってればいいとは思えなくなって。まぁ学ぶこととはなんなのかということがはっきり掴めたという感じかな。
【その「教科通信」にはどういったことが】
 うーん、難しいですね。大きくはね、戦争と差別を許さない人格を育てる。戦争や差別を許さないという一つのねらいがあります。あとは競争社会ですね。競争原理の中で人が歪めれている、人間を優劣でしか見ない。ここには差別心も忍び込むんだけども。
特に、高校生なんか受験で、偏差値教育と呼ばれてる中で翻弄されてくわけ。だけど、その中にあっても、何が間違ってて、何が正しいのかっていうことを自分の力で見抜く力を育てなきゃならんっていうのが一つあるかなぁ。もっと大雑把にまとめてしまうと、より良い人間のイメージというものを生徒に与えねばならない。どういうふうな生き方が、良い生き方なのか。それは、ほとんど道徳に近いようなことになってしまうので、ここの領域から外れるんじゃないかと思いましたけれども。
阪神大震災までの時代は、「若者はなってない。だらしがないとか、無気力だ」とか、いろんな評価をされてきて、時代が混迷したと思いますね。希望というのが見えないというふうにぼくは括ってるんだけど。
その中で、自分がどう生きてったらいいかということが見えない。それを別の言い方をすれば、より良い人間像とはなんなのかが見えない。であるならば、こう生きるべきではないか、こう考えるべきじゃないかということを、いろんな本からピックアップして、生徒と一緒に読んで、少しでも教員の訴えというか考えを付け加えて。ちょっとカッコつけると、思考回路いうか知性の、秩序・枠組みを変えられないか、ということでやってたんですね。
要するに、体は傷つければ一生懸命治そうとするし、病気になれば治そうとするんだけども、精神は血を流さない。心や精神は、大量に入ってくる情報を取捨選択もできないし。その情報の中で身を任せ、漂うような生き方をせざるを得ないとするなら、その何が是で非か。まぁここまでいうとちょっと言い過ぎだけども。そういったものを自分で判断できるように、ということかな。そして、間違ってることをやれば、それを自分の力で修正する力がいるなと思ったのね。だから、より良い人間のイメージを与え続けたつもり。
阪神大震災のときに、金髪やピアスつけたような若い子たちがボランティアに行って、人間性の根源にあるものを実際に示したと思うわけ。そこでちょっと変化があったけども、また新たな無気力時代がやってくる。経済の低迷がやってきて、社会に希望が見い出せないというのは今も変わらない。だけど人間への信頼という点では、去年の東北大震災と共に、信じられるものだというのが少し証明されつつあるんじゃないかと思うんだけどね。
だけど、特に、一九八〇年代とか九〇年代の前半なんかは、人間不信というのかな、そういったものが蔓延(まんえん)してるという時代だと思うので。そういったところに、カッコよくいえば、その水野守廣先生という人がやってた授業スタイルの中身は、それに対するチャレンジだったわけですよ。それにはね、まさに目から鱗。明快で、しかもエネルギッシュ。まぁ実物を読めばわかるんですけど、分厚いんですね。
それを読んで、自分が見つけたものを、ここの学生にアレンジしてやり始めたのが、それこそ三五、六歳ぐらいから。それが少しずつ形になってきたのが四十過ぎでしょうね。今だっていい加減っちゃあ、いい加減だけど、その辺のときには、一応なんのために国語を教えてるのかっていうことは少しずつ自覚を持ち始めたかな。

教師として伝えるべきこと
【時代がそうさせたんですか】
 でしょうね。大量消費、大量生産とか、まだ経済的には伸びてた時代だろうと思うんですが、ただ、もう行き詰まり現象は見えてたと思いますよ。日本の経済成長。
【それから水野先生の…】
 ものまねです、はっきりいえば。
【ものまねしている間に自分の授業が確立してきたと】
 授業というか、やっぱり自分の生き方を正されたような気がしますね。要するに、水野守廣さんっていうのは、ある一冊の本のエッセンスとなってるようなアンソロジーをコピーして、自分のコメントが書いてあるのよ、ダーッと。それこそ、ワープロで原稿用紙に何枚も何枚も。どういったらいいんかな、いくら時代が変わったとしても、その中で変わってもいいものと、いけないものがあるでしょう。それをきちんと自分で仕分けしながら、生徒たちに変わることを訴えてる。その知性の枠組みっていうのかな、その枠組みを変えなきゃダメだと。
例えば、簡単にいうと、受験というのがありますね。受験には勝たなきゃなりません。でも、それはなんのための勉強なのかということを、いつも生徒たちに問い続けるわけ。じゃあ、上層社会であって、上位に入ればそれで人生の勝者になれるのか。それは幸福と一致してるのか。そのようなことが、全部そこには面々と書かれてあって。「曲学阿世」という言葉があるけど、まぁ理想は理想、現実は現実と割り切って、どんどん、どんどんすり減ってく教員が多い中で、誠実に生きる教員というのがおるんだなという感じがしたわけですね。
【きょくがくあせい?】
 学問の真実があろうとも、世の中に合わせてしまう。例えば、原発だってそうでしょ、誰が見たって危ないものを、世の中は承認していくじゃない、力づくで。学問の原子物理学とかやってる人たちにとってみれば、本当は危ないことなんて見え見えでしょう、安全性なんて。だけど、それが罷り通るでしょ、世の中が。そしたら、間違ったことでも通っていくっていうのが生徒たちにだって見えるわけ。
 でも教員であれば、それについてきちんと発言して、どうでもいいことじゃないんだよってことを生徒たちに話すとか、最低限のことはしなきゃならんでしょ。だけど、そのことをきちっと、生き方として貫けるかどうかってところは難しいことで、水野先生という人は貫いていたんですね、間違いなく。
 まぁそれでも紆余曲折はやっぱりあって、自分がやってることは本当に良いのか間違ってるのかとか、いろんな問いかけはあったんです。教員を辞めようかという時代もありました。十何年間も非常勤やってると、学校をコロコロ変わらざるを得ないでしょ。特に今どきの大学生が就職活動や就職面接で、50や100個会社落ちてくるのは当たり前といわれるのと同じように、ぼくも教員採用試験を受けて、それが全部不合格だったわけだね。
 やっぱりね、不合格通知というものを何通も何通も、何年も何年ももらい続けてるとね、人格が変わってくるんですよ。どんなに意思が強くても。正規採用というこだわりもあったんだけど。もう無理じゃないか、教員自体が向いてないんじゃないかとか、いろんなことを考えるようになった時期でもあったので。水野先生の「教科通信」は、最後の砦だったんじゃないかと思うわけ。いかなる状況にあっても、誠実に生きるということが…そうですね。
これ、途中でなくなってしまうんですよ。確か、この先生が五十五、六で亡くなってるんですね、突然のことで。それはそれとしても、それが励みになったのかな。そのときには、いずれにしても、教員をやるやらない、良い授業はとか、いろんな揺れとかあったけど。それでもぼくには生徒に、これだけは伝えなきゃいけないメッセージがあるぞと思って。そのメッセージがある内は教員としての使命はあるかなと。自分が教員をやる意味はあるかなという整理はしてたかな。これが実質、四十代でしょう、たぶん。
そこからはね、これはちょっと難しい話だな。領域がだいぶ違ってくるので。この高校には労働組合があります。その役割が、少なくとも十数年間、自分の中では、ほとんど時間を割いたというか。

労働組合とハンガー・ストライキ
【それは自分の意思で】
 自分の意思というか、まぁやらざるを得ないからでしょうね。私学はもう一つ、組合の役割の中に助成金運動っていうのがあります。生徒や父母が、少しでもいい条件で学校に来れるようにということで、助成金運動も進めなきゃならんので。そのエネルギーというのは、話せば、それこそ何年もかかるようなことなので、ほとんど人生の大半はそこに注ぎ込んだといっても言い過ぎではないくらいですね。
【簡単にお話していただけますか】
 これ、難しい話ですよ、労働組合を理解するっていうことはね。でも基本、働く者は自分に資本がないわけでしょ、経営者は資本を持ってる。経営をうまく回してくには安い人件費で、パートやアルバイト、派遣社員を雇った方が安い。有期雇用の方が使いやすい、いつでもクビ切れるから。経営者はそういう論理で物事を考えるでしょ。働く者は自分の労働力を提供するしかない。ということは、圧倒的な力関係が経営者側にあって。それこそ、明治時代、女性などは一番社会的に弱い立場から徹底的にこき使われて。働く者として男性だって経営者が気に入らなければ、いつでもクビを切られる。
例えば明治時代に、こんなしんどいことは嫌だと、製糸工場の女性たちがストライキに入った。そっから、昔は官憲っていって警察や軍隊の取り締まり対象で、犯罪。だけど戦争が終わって、憲法ができて、それは権利として認められて、そっからまた長い歴史が始まってく。働く者っていうのは、基本的に弱い立場の人たちですよ。だったらそれは、団結することで、力を合わせることでしか経営者と対抗できない。まぁ究極な言い方をすると、働く者たちのための社会を築く。そこまでいっちゃうのかな、究極までいくと。
例えば、就業時間が終わって仕事してたら、ちゃんと超過勤務手当がでます。休日には休日出勤手当が出ます、働いてることに対してボランティア、サービス残業じゃなくて、ちゃんと手当がされて、少なくとも教員にふさわしい賃金が維持されるとか。いろんな事柄があるんだけど、女性が産休に入ることもね。一般社会、一般企業じゃ実際には難しいでしょ、育児休業も含めていうとね。
いま例えば、育児休業を3年に延ばそうかって話です。実際には、働くスキルを持った人たちが3年スポーンといないので、経営者としては、大損といえば大損。でも、それを交渉で権利を勝ち取っていくということに対しても、労働組合は力を尽くします。
もちろん助成金運動。特に私学っていうのは、ぼくの給料は国、愛知県からの補助と、みなさんが納めてくれる学費の、この三つの収入から成り立っている。私学であるが故に、まぁそういう宿命を負ってるんだけど。公立が無償になれば、私学も同じ日本に住んでて同じ高校生なんだから。自分が選んだとしたって、公立と私学でそんなめちゃくちゃな格差があっちゃならんわけで。そしたら、世の中にその平等を求めるために、「私学助成を増やせ」とかいうことを、愛知県や国に求めることもしていかなきゃならんですね。それは、ここの学校の経営を安定させるためだとか、ひいてはぼくたちの雇用の安定でもありますね、実際には。
【そうなんですか】
 だからね、ジャンルが一気に広がってくるの、労働組合っていうのは。ものすごく多忙なわけだ。ちょっと話がややこしくなるけど、労働組合の役割の中には今いったような、自分たちの権利、働きやすさを求めるだけじゃなくて、今通ってきてる生徒や父母が、家庭の負担や、そういった負担を含めて社会をより良くしていくための活動でもあるわけだ。私学だけでいけば、今いったみたいに公立と同じように私学助成がでる。そしたら、私学に行きたい子は行けばいいし、公立行きたい子は、もちろん公立行けばいい。
だけど今、公立はただで、0円。私学はとりあえず、私学助成はいっぱい出るけども、最初に納めるお金は60万くらいかな。この壁はものすごく大きくて、それで学校選択ができるかっていったら、それは簡単にはできませんよ。それをなくすためには膨大な努力がいります。県や国がお金を出せばいいことなんだけど。公立にはお金を出すけど、私学にはお金を出さない。
これではね、はっきりいって不平等すぎるということで、助成金運動はそちらの方にもいくわけ。社会の平等とかね、そういった、権利侵害とかにも敏感でなきゃならないと思います、実際。だから、そういうこともやってるわけだ。そうするとね、もうそれはこの学校の中だけでは完結しないわけです。
【そうですね。公立の3倍って私たちの時代は言われてましたけど】
 そうそう、3倍ぐらい。だけど、三十数年前は30倍でした。それを署名やったり集会やったりしながら、愛知県に提出し、署名を提出し、国に出し、それをキューっと縮めてきたのが、いいとこ3倍。
【あー、そうだったんですね】
 当時は3倍といっても、仮に公立が10万、私学が30万。それでもね、不平等すぎる、3倍じゃえらすぎると言ってたことはいってたけど。変な話すると、今よりはうんといいですね。公立は0円で私学だけが、就学支援金が出たって10万円だから、差し引いて50万でしょ、年間。それは50万倍、単純比較すれば。だからね、この辺も今や比較の対象にならないんですよ。大阪は、私学校の一人当たり、最高58万くらいまで出しますので、だから、負担はないです。公立と全く同じ。でも、愛知県はしない。
ぼくはね、極端ではないと思うんですけど、ほとんど布団で寝たことはないですね。もう、とにかく職場の新聞、組合ニュースっていいますけど、それを書き続けなきゃならんのですね。年間、少なくとも50~100部くらいかな。だから、これを書くっていうのは猛烈な作業で。書くだけが組合活動じゃないんだけど。ハンガー・ストライキもやりましたね。
二〇〇六年…学費をね、経営者、理事会が、在校生も上げるって言ったんですよ。普通、学費値上げするときは、一年生からなのね。一年生から上げて、次入ってきて二年生で三年生。ところがね、在校生も全部一律上げるっていう。とんでもないということで、引かなかったんですね。最後の最後までもつれ込んでしまって、旧校舎の渡り廊下に座り込みました。まぁ冬空の二月~三月ですからね。大変だったね。
 まぁ、間違ったことに対してはね…もちろん、そのハンガー・ストライキに入った理由も、いろんな理由があるけど。そこまでやるべきか悩んだことも、もちろんあるんだけど。人のためには頑張れるものでしょ、人は。自分のためには頑張れなくても、みんなの役に立つんだったらっていうのがあるとは思うので。誰だって、ある程度は。一応、大義があるというかさ、やる意味があるとか。もしも、これによって学費値上げが少しでも上げ幅が減り、少しでも先送りできるものならっていうことで。

確かなるものを見つけて
【その時代と今では、どの辺が変わったんですか】
 はっきり意識したのは、2年前か。二〇一〇年になるね。授業って要は、1対40でしょ。ぼくは、ぼくの考えで、国語だったら「国語通信」で授業組み立てたりしてきたんだけど。その方法はね、発見や感動があれば、人は変わり得るという、知性の組み換えをしていくんだと。内部秩序のね。今までにない、まぁ平たい言葉でいえば、カルチャーショック。例えば、今までこうだと思い込んでたものが、全く別の側面を見せる。そういったものに出会ったりすると、人は変わり得るんだということを。DVDや映像とか、講演を聞いたときに、これはまさにぼくにとってのカルチャーショックでした。二〇一〇年の夏だったと思うんですけども。
ぼくはね、あまり良い言い方じゃないかもしれないけど、自己啓発的な本というのはあんまり読みたくなかったし、君たちにあまり紹介もしなかったのね。むしろそうじゃなくて、生々しいルポルタージュだとか、ノンフィクション、もしくはエッセイであったりというものを基本的に読ませてたんですよ。でも、二〇一〇年夏、ちょっとした研究集会みたいなのがあって。そのDVDに少し出てた木下晴弘という人、これは自己啓発とか、能力開発とかいう会社を立ち上げた人です。その人の生の講演を30分くらい聞く機会があったんですよ。
それで、何を話しているかが、自分自身が日頃話している中身を、それを更に先鋭化させてくというかさ、キューっと絞った形でバシっと伝える。しかも映像つきで。これにはちょっと大変ショックを受けて、その場に売ってた彼のDVDとか本も買い込んで。そっから、彼が紹介する本をダァーっと一気に、関連する人たちの文章を読んだりしながら、はっきりまとまってきたことがやっぱりあって。それは良いことかどうかは分からないんだけど。
今、キャリア教育ってよくいわれるでしょ、生きる力だってよくいわれるでしょ。ぼく自身はそういう力を高校の中で育てたいなと思ってたのね、高校でその教科を通じて。もしもこの高校でキャリア教育をやるとすれば、国語というバイパスは通さずに、「生き方」みたいな。
【キャリア教育っていうのは】
 まぁ、難しい概念なんだけど、生きる力というものを、もしくは、働くとはなんなのかとか、そういうことについて総合的に…そのキャリア教育の一環としてインターンシップもあるわけだ。その中で得た知識や本の中で語られてること、海外の本も含めて。さらには、経営マネジメントだったりね、そういうのも含めて読むと、みんな一致して同じことが書いてあるの。
 例えば、「与える者は与えられる」、これはとんでもない。自分の権利が侵害されれば、それとは戦わなければなりませんよ、ちゃんと正義感をもって。だけど、人間関係とか、社会の組織、つまりは人間がベースになっている組織、100人、200人組織がマンパワーとして活き活きと動きだすためには、今いった「与える者は与えられる」、つまり、自分が笑顔を作っていけば、周りも笑うし、自分が暗く、攻撃的であれば周りも攻撃的になる。そして、今自分が上手くいっていない理由を自分の中に求めるときに、自分と未来は変えられるという鉄則が見えてくるじゃないですか。

「自分が源泉」
それと一緒で、「自分が源泉」として物事を考えていったときに、何か自分が変われば…この言葉だけじゃないけど、その事柄をいろんな角度から生徒に教えてあげなきゃダメなんじゃないかと思ったわけ。相手に心を開いて欲しかったら、自分が心を開かないと。でもこれは、案外忘れがちでね、人生の真実だろうなとは思うんですよ。
【実際に生徒さんたちはどうですか】
 「自分が源泉」って、そんなバカな。憎らしい、とても付き合いきれない人、それを自分が原因を作ってるんじゃないかと考えてみる。これは、難しいわ。あいつが悪いに決まっとるじゃんって。だから、そういうことの一つ一つが生徒に言葉として入ってくかなあというと難しいね。まぁ、だけど、たぶんこれは正解なんじゃないかなと思って。
正解っていうのは、あと何年間、ぼくが教えれる時間の中で伝えるべきことは、このことなのかなぁと思ったりもする。でもそれは、ひょっとしたら間違ってるかもしれないって思ったりもするんだけどね。間違ってるっていうのは、結局は年齢相応にしか理解できないという限界があるのかなとは思います。
【それは、振り返る時期があると思いますけど…】
 なんのために働くかっていうとね、自己啓発関係の喜多川泰という人がいろいろ書いてるの。これほどに明快なものはないとは思うんだけどね。
あるレジ打ちの女性の話で、その人は何をやっても続かない。結局、正社員にもなれなくて、もう派遣しかやってこれない。派遣やってもすぐ飽きて、すぐ辞めてしまう。最後に辿り着いたのはレジ打ちの仕事。でもそれもすぐ飽きちゃう。自分でもこんな自分が嫌で、もう故郷に帰ろうかなと荷物まで全部整理していたら、昔の日記がでてきて。小さい頃のピアノの練習の思い出が書いてあって。ひょっとしたらと思って、好きなピアノのようにレジを打つ、ピアノの暗譜のように、レジをブラインド・タッチできるように練習する。
そのことから、ブラインド・タッチ、要は手元を見ないわけだから、その間にお客さんと話をする時間ができたんだね。打ってる間に、「今日は鯛ですけど、なんか、めでタイことでもありましたか」って会話をしながらっていう。会話をするっていうのは珍しいことでしょ、実際には。みんな忙しそうにしてるんだから。でも、必ずその子は会話をするんだ。「この商品は、こっちの方が特売ですよ」って親切にいろいろ言ってくれて、そのフィーリングが伝わってくるんだね、お客さんに。そしたら、全然忙しくない日なのに、その子のレジだけに列が作られてるっていう。
このエピソードは広島で本当にあった話なの。その子はレジ打ちみたいな、ある意味無機質な仕事なんだけど、それをね、自分の仕事にしちゃうの。自分にしかできない仕事にする。自分だけにしかできない工夫や働き方っていうのは、やっぱりあるねっていうことは生徒にはいうんだけどね。
これは映像になってるから、それを見せながらね。実際の子が出ているので、その映像には。そんなのを見せながら話をするんですよ。そうしないとね、働くっていうのはね、やっぱりしんどいです。単なる給料をもらうっていうだけでは。でもね、やっぱり働くことをしんどいことに勝手にしてしまう、ここでもね、「自分が源泉」なの。このルールは今は鉄則だなって思うね。それが伝わればなぁって思うんだけど、伝わらないんだなぁ、これが、なかなか。
 だけど、要するに、最後の最後まで模索するような、一番いい着地点を模索しながらやるしかないんだな。たいてい、教員経験からいうと、模索しながらやっていった方がいいんだわ。完成されちゃうとダメなんだわ。雛形ができちゃったときに死ぬでしょ、良いものっていうのはさ。魂が入らないとダメじゃないですか。だから結局、最後の最後まで模索しながらやってくんだと思うんだよね。受け止めは、年齢と共に変わるから、まぁなんとか残してやれんかなとは思うけど。
〔二〇一二年六月二十八日〕
 

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