語られたストーリー
2013.04.29 見えてきた自分の役割 語り手 (男性 55歳 2012年取材)

父親のDVと四男としての生き方
【生まれた年は】
一九五七年九月二〇日。
【当時はどういった年ですか】
昭和三〇年代なので、わかりやすくいうと、「三丁目の夕日」の…あの時代のちょっとあと、っていう感じかな。
【出身は】
名古屋市中区です。松坂屋本店の東側。昔は南武平(ぶへい)町っていったかな。今は栄5丁目になってると思うんですけど。
【家族の環境や地域との関わりとか】
基本的には、まぁ、だいぶ街中なので、様相はだいぶ様変わりが早いし、激しいわけね。すぐ隣りに、久屋大通り公園っていうのがあるんですけど、今は、アスファルトで噴水なんかあったりして。子どもにとっては、木がいっぱいで、身近な遊び場でしたね。当時は何も分かりませんでしたけども、沖縄返還ってわかりますか。沖縄返還のときの人たちの集会だとか、いろんな集会が、いつも結構頻繁に行われていた場所ですね。
【ご家族の構成は】
自分が生まれたときは、もう祖父は亡くなってて、父母、上に3人の男兄弟。
【ご家族はどういった感じで】
うーん。平穏なときと、波風のあるときが激しくて父のDVですね、まずは。定期的にあったといってもいいでしょうね。暴力っていっても、子どもには暴力ふるわないですね。一方的に母親、妻に対しての暴力。夫婦間だけの。
【そういうのを間近でみて…お兄さん達とかは】
その辺のことについては、あんまり意見交換をしたこともないんだけど。いずれにしても、子ども時代のときは何故そういうふうな、精神状態になるのか、父親がね、全く分からなかったですね。それは謎で、はっきりいうと。まぁ、いろんな原因を家族でも分析しました。
家は和裁業をやってたので、親父は古いタイプの人間なので、あんまり弱音とか本音を喋るっていうことはないんですね。時々話す言葉や、特に外の方からの情報なんかを聞いてみると、いわゆる女の仕事だと、和裁なんていうのは。そういう劣等感があるんじゃないかとか。いろんな分析をね、家族でしてましたが。
平ぺったい言葉でいってしまうと、昔気質(かたぎ)の職人なので、そういういろんな自分の…悩みとか感情を吐露するっていうことが下手だったっていう言い方もありますが。だから、あんまりよく分からないまま、今の言葉でいえばストレスをためて、それが一定の限界を越えるときに爆発するという形であったと思います。
【お母様はなんにもいわなかった】
まぁ、耐える方のタイプの女性なので…そんな感じかな、基本的には。ぼくの小学校ぐらいまでの記憶で一番印象深いのは。もちろん、別にそんなに頻度はなかったと思いますけどね、年に4回ぐらい…の大爆発があったぐらいで。それ以降、いつも、365日暴れてる訳ではないんですね。お酒も飲まないし。ですから、小学校くらい前の記憶は、だいたいそんな一番印象の濃厚な記憶でしょうね。家族的な平和な時代の思い出も多少は、魚(うお)釣りに行ったり…そんな記憶も、もちろんあるわけなんだけど。
【学生生活とかはどうだったんですか】
これでもね、ずっとクラブやってたんですよ、小学校から。小学校は野球部、中学時代はバレーボール、高校時代は柔道部ぐらいですね。色んな理由があるけども、兄が3人ともスポーツ・エリートではないんだけども、クラブを自然にやってたので、自分もそういうことに自然に入ってった感じかな。だから、クラブやるのは当たり前。
【勉強は好きでしたか】
好きか嫌いかというと、うーん、どうだろうな。まぁ簡単にいうと、小学校のときはオール3くらいの子ですわ、たぶん。あまり記憶もってませんけど。中学校に入って、環境ががらりと変わって多少勉強できるようになったのかな。
【それは、お引越しされたとか】
違います。新しい環境に入って自分の気持ちも一新したんだと思うんです。だから、教員のいうことを素直に受け止める考え方が自分にもあって、そのチャレンジ精神とかなんかを、たぶんいわれたと思います。それを、ある意味、真に受けてコツコツ勉強しだしたら、あっという間に成績が良くなったもんだから。だけどそれもね、とても続かなくて、中二、中三ぐらいは全然続かなくて。
【中三となると高校受験とかも】
もう、そんなの全然自覚ありません。進学の自覚なんかなんにもなく。漠然とだいたい末っ子なんで、兄貴のやるとおりやってるような感じですよね。漠然と進学するということについては前提なんだけど。だからといって受験勉強するわけでもなく。少なくとも積極的にはしなかったと思います。

一番身近な兄の変化
【高校のときは勉強とかは】
うーん、成績は別に悪くなかったと思います。文系の成績は、たぶん。奨学金、昔でいう日本育英会で、成績が一定に達してると、給付があったんですよね、昔は。ただでもらえるやつがあって、その基準はかなり高いんですよね、オール4だとか。いわゆる5段階でいうと。ぼくは全然、高校で受験勉強するという感じではなくて、親父のDVとか、そういったものがどんどん続いてたので、そんなに学校が楽しいとか全然記憶がありません、はっきりいうと。
兄も荒れだして、すぐ上の兄がね、高校すぐ中退して、家出して、いろいろ大変でした。これは、今でいうヤンキー仲間に入って、大きな事故も起こし…ですね。そういったこともあって、もうお袋は見ていられない状況ですね。
長男次男は別に、心配かけるようなタイプじゃないです。三男の兄が荒れに荒れてたかな。今でいうと、自分探しみたいな形ですかね。生きる目標を失って、人に引きずられやすいタイプなので。うーん、ズルズル、ズルズルはまってたような感じかな。
【それは、高校生くらい】
一年から二年ですね、たぶん。
【そういう時代だったんですか】
…いや、そういう時代を振り返ったことがないので、うーん、六〇年安保の挫折の時代があったでしょ。無気力、無感動、無関心。三無主義だとか六無主義だとかいわれた時代です。それが流行ってた時代でしょう。荒れてた世代というのは、いつの時代でもいますからね。カミナリ族だとか、なんだかんだと、グループがいろいろね。
【先生はそういうお兄さんを見て…】
途中から見失っちゃったね、ある意味。一番年齢が近くて、しかも実際には一年半くらいしか誕生日があいてないんですね、兄貴とは。長男とはたいぶ離れてるもんですから、ちょっと別人な感覚がありましたね、はい。

大学生として訴えるべきもの
【大学は何系だったんですか】
文系です。文系哲学科という。京都でね。寮生活が始まったので、一言でいってしまうと、毎日、修学旅行ですわ。
【それは楽しいってことですよね】
もちろんね。最初は慣れるのに、カルチャーショックがあったけれども、自治寮というスタイルをとっていて。どういったらいいのかな、フリーじゃないんですね。まぁ、寮長みたいな人がおって、それが管理人みたいな形ではなくて、選挙で選んで執行部を形成するわけです。
なんでかいうと、その当時、大学へ行く人は確か10人中…ぼくの記憶では4人くらい。いろんな経済的な事情もあって、すべての高校生が進学するわけではない。貧しいけれども、あんまりお金の自由はないけれども。寮に入ってね、そういう時代に大学に来るっていう、寮の役割っていうのはやっぱりあるんじゃないかと。社会的な役割を先輩の寮の人たちは考えていて。
学費値上げがあれば反対運動をするし、寮の施設が壊れそうだったら、大学の事務と交渉もして、直してもらうということも含めて。寮というのは各大学にダーッとあるもんですから。その大学の自治寮のいろんな人たちと交流して…というようなこともあって。
【それが当たり前の時代だったんですね】
当たり前だったんですね、もうないでしょうね、たぶん。寮の自治会連合なんてのは。
【寮での先輩に感銘を受けたというか…】
今でいうとね、冷静に考えてみると、どういったらいいかな、大した言葉ではなかったんだと思うんだけど…だけどぼくは、ほとんど視野が自分の家庭の中とその身の周りしかなかった。寮にいったときに三回生だったと思いますから、二つぐらい年上の人でしょ。でね、その人が何をしゃべったかというと、今いったようなことです。
全国には貧しさというものがある。10人中4人しか大学に、少なくとも今は来れない、来てない。だとしたら、この4人が果たすべき役割はなんなのかと。学問をするということは一体なんなのか。それは社会的な役割も考えなきゃならん、ってなことをね。細かいことは忘れてしまったんだけど、そんなことをしゃべる同年代の人は誰もいなかったので。大人がしゃべっても、そういった言葉は右から左でしょうけど、ほぼ同じ年代の人たちが、すごい高い意識を持って、社会の中での自分を考えると。そのために行動してる人だということをいうので、これはまずちょっとびっくりしました。
例えば、卒業式のときに生徒会長あたりが答辞を述べたり、送辞を述べたりというようなことは聞いてても、やっぱりね。「貧しさ」ということにすごく敏感だったので、そのことに対して切り込んでくる、社会平等のため学問はあるとかね。そんなようなことをしゃべったんですよ。その実現のために学問はあるのだということを。その意味について深くは理解してなかったんですけども、だけど、少なくとも感銘はしましたね。
【その先輩の志とか、思いとか受けて、自分は指導者になりたいと思ったんですか】
いや、そんなね。いろんな人がいるから、教員の中にも、一直線にターッと駆け上っていく人もいますよね。でもぼくはそんなシンプルじゃないので、屈折してるのかもしれませんが。いったんは、もうとりあえず白紙の状態で大学に行きました。
【というのは】
教員になるなんて全然考えてなかった。
【とりあえずお兄さん達が行ってたから、自分も行くんだと…】
簡単にいうとね。もっと無目的な感じで。ただ、哲学というのは、なんらかの答えが見つかるのではないかという気はしてましたね。倫理・社会というのは哲学の歴史でしょ、ずーっとね。それには妙に興味があったことは覚えてるので…ただそれがすべての引き金ではないにしろ、何かの期待はしてたと思います、実際に。だけど、そんなにはっきりとした目的意識があったわけじゃないです。
【大学生活はどうだったんですか】
最初は学問に目覚めたつもりだったんですね、寮の自治会委員長の言葉で。とにかく勉強しなきゃいけないんだなと思って、だからいろんな本を読みまくりましたけどね。小中校でクラブやり続けてたから、体がなまるのがもう耐えきれなくなって、武道やってみたいなという。柔道部はもちろんやってたので、なんかもっと強くなりたいという気があって。そのとき、少林寺拳法部に入ったんだね。自分から入ったのはたった一人で。その年代、みんな強制勧誘っていってね、入学式のときにクラブハウスへ監禁されて、脅されて、辞めるに辞めれなくなった子たちばっかでした。自分からって子はいません。だから、みんなはぼくのことを変わったヤツだっていうふうに、ずっと。
【この自分の人生を振り返って、転機とかは】
はっきり分かったのは、いろんな修正しながらなんだけど、この辺の時期ですわ。クラブは本当に純なものなんだよね、ある意味では。打ち込むだけのものですね、簡単にいうと。そこには、別に大きな成長があった訳じゃないと思ってるんだけど。あとは、自分だけの読書体験ですね、これがやっぱり違ってた。
【読書体験】
えー。やっぱりさっきの寮長の影響はかなり受けてたと思うんだけど、マルクス経済学、マルクス哲学、歴史発展の法則。まぁこういった、昔でいけば左派というか、この社会の中の貧しさとは何かを解明する理論や、その運動を築き上げてる人たちにすごく共感があって。その理論的な部分で、読みまくった本が、やっぱり自分にとっては、その後の核心になりました。教師やる、やらないは別にね。
【とにかく、そういう言葉とか本とか、そういうのに惹かれてた】
原体験がね、君たちに教えてたときに、少し自分でしゃべってて分かったことがあったんだけど、あんまり大したことじゃないとは思っとったんだけど。やっぱりね、お金はなかったの。お金のやりくりをお袋はいつも困ってたことは覚えてるし。小遣いというものは、もちろん多くもらったことがなくて、高校生でも本当に…。毎月の小遣いはありませんよ、もちろん。みんながジュース飲んでるときは、ぼくは水を水道口から飲んでた記憶があります。
昔、高校時代ね、飲みたくてしょうがなかったのはね、コカコーラでしたね。みんなは浴びるように飲んだけど、中学校のときもそうだね。いまだに忘れませんけど、クラブ終わったら自動販売機でジュースをカブカブ飲んでたんだけど、そんなお金もなくてさ。ぼくは四男だから、着てるもんなんかも、みんな兄貴のお古ばっかで。いや、もっと貧しい生活をしてる子もいるんだけど。
だけどね、子ども時代にお金が自由にならない、着てるものもみすぼらしいとかいう感覚はね、やっぱり、自分の中に結構あったんですね。今は、それこそ貧乏自慢みたいにいう感じになるのかもしれないけど。でね、弱い者の立場に立つというスタンスは昔からやっぱりあったんかな。

弱者という立場
【正義感というか】
いや、正義感とかいうそんなもんじゃなくてね。自分は、自己主張が強くはないし、力関係でいうと、人を引っ張ってくタイプでもないので。どう言ったらいいんかな、どちらかといえば、ポジティブよりもネガティブなの、全般的に。ということはさ、弱者の心を理解しようとするというスタンスにはすぐ立てるわけだ。それも全部噛み合わさったところで。やっぱり社会には貧しさがあるでしょ、これは間違いない。それは、みんなほったらかし、もしくは見て見ぬ振りですよ。でも、それはしちゃならんというふうに。
そして学問は社会の平等や、そういったものを実現するためにあるというふうに聞いてて。それを理論として、体系としてまとめたのがマルクルやエンゲルスや、そういう人たちだといわれて、その手の本はダーッと読みました。夏休み、部活やりながら。バイトやって夜。二年か三年のときはね、もう家にも帰らず、ずーっと本読んでましたね、寮で。そこから少し、自分は少なくとも、こういうふうに生きてけばいいんだなという、漠然としたものは掴んだのかな。
【それは弱者の立場に立って何かをしていきたいという…】
なんらかの…自分の果たすべき役割があるんじゃないかと。そのときにいろんなエッセイやルポルタージュを読んで、福祉の分野にものすごく興味があって、いっぺん変わろうと思ったの、学校を。日本福祉大学に。落ちましたけどね、編入試験。落ちたんじゃないわ、願書が間に合わなかったのか、たしか。いっぺん書類だけもらいに来た覚えがあります。まだ名古屋(昭和区の杁中)にあったときですね。
【大学で、恩師とかいらっしゃるんですか】
いません。まったく。ぼく、授業にほとんど出てません。クラブしに行ってただけです。
【そのときって大学と、寮とかっていうと】
寮生活については、学校とは一応対立関係はあったね。寮はお金がかかるでしょ。学校が運営するために、潰そうとしてたからね。
【それの反対運動とかも】
もちろんやりましたよ。たぶんね、三回生か四回生くらいだと思います。だから、廃寮、募集停止したと思います。確かぼくの一つ下だと思います。
【その寮をなくさないで欲しいという運動は】
そりゃ、学内でチラシ撒いたりね。チラシ撒きといったって、昔の大学生がそんなもんで影響されるわけじゃないんだけどね。
【学校からの圧力は】
それは結果的にはなかったと思う。向こうは、好ましいとは思ってないと思ってるけどね。だからといってね、たかが学生だからね、はっきりいうと。しかも人数的にもそんな多くない。やっぱり今の寮っていうと、スタイルは個室でしょう。うちらはそうじゃないのね。基本は2人、もしくは4人だからね。若い子たちが、どんどんそういう生活をやろうという気にはならんでしょ。やっぱり、一人の空間、一人の時間を欲しがるでしょ。

カルチャーショック
【他には】
四年生くらいから、少し教員になりたいなって思ったことはありましたね。同じ少林寺拳法部内でね、同じように、そんなに勉強はしてませんが、そういうヤツらが、あるときね、灰谷健次郎という作家の「兎の眼」という小説がありますけど。それをなんか知らん、大学で読んだときに、「俺は小学校の先生になるんだ」といって。
このとき、やっぱりちょっと、だいぶ…カルチャーショックを受けましたね。殴ったり、蹴ったり、バカやってる連中の中の一人が突然、警察官になったり、消防士になったり。一般企業に、銀行やいろんなとこに入ってくんですけど。ちょっと揺らぎましたね、はっきりいうと。
【揺らいだ】
いや、ぼくは卒業単位ギリギリでとてもじゃない、教職単位はもちろんもってないし。もうクラブしかやってないっていうくらい、バカみたいにやってたもんだから。その同じチームで、同じようにクラブ活動やってきたヤツが、自分の進路について、きちんと考えをもってるということについてはちょっと…。漠然とした教師願望はないわけじゃなかったので、まぁちょっと自分の中で揺らいだところはありましたね。
だけど、もうなりゆき任せで。そのときは、福祉の夢や福祉関係についてはちょっと諦めてたので。学部も変わらなかったし。あと、公務員ですね、ケースワーカーとか。ああいうのになるためには公務員になる道も探して。ということで、いきなり四年生で公務員試験受けたかな。3か月間準備して。もちろん落ちましたけどね。結局ダラダラッと一般企業を回って、昔の就職は秋からだったので、秋から何社か回って、一般企業の伊藤ハムというところに。
【えー! 一回企業に出てるんですか】
うん。営業ですからね。2トントラックの保冷車に乗って、最初は神戸、大阪で研修して、いわゆるUターン、ちょうどこの辺の地域を担当してた。
【この名古屋市を】
うん。しかも名東区。小売り業者。だから精肉店やスーパーマーケット、当時はコンビニとしてあったのはローソンとココストアですね。そこで、まぁはっきりいうと数字だけの世界なんでね、営業っていうのは。ノルマが達成できればエリートで、達成できなければダメ社員ですから。ぼくが入ったことで初めて売上が伸びたような顧客はあったことはあったけど、これを一生の仕事にしていくかは、たいへん悩みました。
その辺から約2年。やっぱりこれはちょっと仕事に就くか就かないか、教員免許状についてなんにも取ってないんで、一から取り直してどうなるかっていう。当時は、通信教育で1年間で小学校の免許取れたんです、今はどうか知りませんが。小学校の免許取りたいなと思ったんですけど、ぼく、色弱の強度なので。だから、もう辞めて、中高の免許に切り替えて、そっから通信教育で免許だけ取ったんです。

教師になりたい
【それは24くらいですか】
そうですね、だいたい24くらい。その辺からはアルバイトしながら、その教員免許の単位をずーっと取っていって。最後の半年くらいは、もうアルバイト辞めて教員採用試験を勉強してたかな。丸2年ですね。2年っていっても、1年と半分で見込証明書があるから、たしか1年はやり過ごして。2年目で見込証明書が出るので、2年目で受けたと思う、たぶん。
【もうそのときは、自分は教員になると】
勝手に決めてましたね。
【志は高かった】
うーん。シンプルです。いうならば、教員に憧れてたかな。少なくとも、一般企業ではもうとてもじゃないけど…今でいえば、やっぱり挫折があったので。挫折というふうには自分では、そのときは判断せず、やっぱり違うやりたいことがあるからというつもりで教員免許を取ろうと思ったかな。そっから先はもう、「教員になりたい、教員になりたい」ということで。
まぁ伊藤ハムを選んだ理由も、関西ではけっこう大きな会社なので、関西の先輩がたまたま就職したのが伊藤ハムだったもんだから。あぁ、そんな会社もあるんだ、という気持ちで受けたというのもあります。動機がこう…どうしても入りたくて入ったとかいうことでは、もちろんないので、余計辞めるとなったら熱意が失せてきますわな。
【教員試験は一発で受かったんですか】
全然。落ちまくりましたよ。これからずーっと落ちまくる。37歳まで。落ちまくり。
【えー! そうなんですか】
〔二〇一二年六月一日・名古屋市〕

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室