語られたストーリー
2012.02.29 老年期の過ごし方を考え続ける元牧師 語り手 (男性 86歳 2009年取材)

 【あらまし】

 牧師という職業は、生涯現役ではない。いつか教会に所属する信者たちを司る立場を隠退する日が訪れる。後進に道を譲った後、どのような生活をおくるのか。語り手は様々な生き方を模索する。
 語り手の元牧師は、妻と二人で軽費老人ホームに入所する。だが、二年間でそこを離れ、ふたり暮らしに戻る。施設で用意される三度の食事、ある程度の広さ、日常の安心などよりも、自由な生活を求めたからだ。
 すでに高齢となった元牧師は、病を幾つも抱え持つ。だが、夫婦で支え合い、子どもたちや教会員との交わりを持ちながら、独立して老後を過ごす生き方を選んだ。
 元牧師は、多忙である。学校の礼拝、教会の協力牧師としての説教、幼稚園への協力など仕事は多い。隠退後はキリスト教の歴史について研究しようと思っていたが、記念誌の編纂以外には何もできていないという。しかし、そう語りながらも、老年期を生きる信者のために組織を立ち上げるなど、老いを充実させている。
 
●小見出し  
 牧師を隠退したあとは何をするか
 大学で説教、他の教派の人たちとも交流
 幼稚園の非常勤園長を務める
 老後の生活を支える教団の互助制度
 軽費老人ホームでの生活
 マンションに戻り夫婦だけで暮らす
 息子や嫁が訪ねてくれるから
 マルタの会と高齢者の悩み
 牧師の老後
 老齢社会を考える会から実行する会へ
 
牧師を隠退したあと何をするか
 わたしが七十四歳か七十五歳になったときです。牧師としては現役を退き、息子と一緒に宮城県に住むことにしました。
 老後は、少し自由になって、東北のプロテスタント教会の歴史を調べたいと思っていました。個々の教会の歴史についてはユニークな研究がありますが、キリスト教的社会運動史はあまりなかったからです。東北で活動を続けたクリスチャンたちに光を当てたい。いま残しておかないと消えてしまいますからね。自分の課題としてそういうことをやりたいと思いながら、いろんな用事に追われて、少し史料を調べたくらいで、ちょっと怠けている状態です。
 キリスト教は、単独に存在するのではありません。相対的な人間の思いを超えた精神的な運動だと思っています。仏教の人たちとも神道の人たちとも交流したい。何も争うことはない。わたしはそう考えています。
 歴史を調べる機会は、思いがけず訪れました。協力牧師をしている教会が創立一二〇年を迎えたので、『百二十周年記念誌』の編纂を手伝うことになったのです。完成まで三年ほどかかりました。一般の信者に読んでもらいたいと『五十年史』をもとに戦前の状況について書き直し、年表をつくりました。さらに「注」をつけてわかりやすく編集しました。「注がよくできていた」とほめてくださった人もいましたよ。
 
大学で説教、他の教派の人たちとも交流
 牧師を隠退してからは、東北学院大学や宮城学院大学、バプテスト系の尚絅(しょうけい)短期大学(現・尚絅学院大学)などで説教をし、礼拝の手伝いをしました。
 東北学院大学の元学長はわたしの後輩で、東京神学大学時代の後輩たちがキリスト教学科の教授をしていました。もう、定年でそれぞれ退職していますが、そういう親しい人たちが呼んでくれたのです。
 東北学院大学では、年一回、説教をする奉仕者の、「交わりの会」があります。他の教派の方々やルーテル教会の人たち、外国から来られた方、仙台に来ている若手研究者、他の教派の現役教師たちとの交流の場です。とても刺激になりましたね。
 
幼稚園の非常勤園長を務める
 牧師を隠退したあと、何もすることがないというわけではなく、結構いろいろなことをしてきました。
 まず、仙台市内の教会を手伝いました。明治期のプロテスタント教派には日本基督教会、日本組合基督教会、日本メソジスト教会という三派が代表的ですが、わたしは旧メソジスト系の出身です。教派的には青山学院大学の系統と関連を持っています。その旧メソジスト系のA教会で代務牧師を務めました。代務教師とは正規の牧師が不在の時に務める牧師です。かつて福島県で牧師を務めていたとき、A教会の牧師が変わるたびに一年ほど代務牧師を務めました。今はそこに所属しています。
 そのほか、ある教会の牧師さんから、「経営の経験がないので教会が運営する幼稚園を少し手伝ってほしい」と頼まれ、三年ほど非常勤園長を務めています。一週間に二、三度出かけています。
 
老後の生活を支える教団の互助制度
 日本キリスト教団を隠退した牧師は、そのあとも地域の教会を手伝うという役割を果たすことがあります。
 教団には、一つの教会を担当する担任教師をはじめ、神学教師、教務教師、隠退教師、巡回教師という五つの職務があります。巡回教師は一つの教会に所属するのではなく、地域の教会に出て行って、例えば牧師が病気のときや不在のときに代行する牧師です。
わたしは隠退牧師なので、巡回教師のステータスは持っていませんが、実質的にはその役割を果たしています。
 日本キリスト教団は、企業年金のような年金制度を設けています。教会の附属幼稚園の園長や大学教授などはいいのですが、そうでない牧師は国民健康保険・国民年金ということになります。したがって、年金の支給額は低い。それを補てんするために、「教団年金」という互助体制を整えています。
 こうした年金制度と全国の信徒からの献金などで維持してきた制度ですが、教団の互助制度を受ける人たちが、六百人以上もおられます。しかも掛け金の負担は教会の給与によって大きな差はあるものの、年金の額はそれほどの差はありません。
 かつて日本キリスト教団に合併する前ですから、大正時代です。そのころは、恩金のようなものを支給していたそうです。日本基督教会や日本メソジスト教会などは、退職する牧師に謝恩金を送っていました。カトリックにならっているのでしょう。
 カトリックは、神父(ファーザー)の老後について責任を持っています。教会が神父の身分を保障しているのです。その影響がプロテスタントにも及んで互助制度が作られました。牧師が老後、国家の生活保護を受けることにならないようにという意味もあったと思います。
 一か月に百円献金しましょうという信徒運動が北海道で始まり、現在では、全国に広がっています。謝恩の気持ち、収穫感謝の気持ちなどから起こった献金運動です。
 こうしたことから、わたしと同年代の人たちは生活に困ることはないみたいです。お金が「足りない」といっても、教会の附属幼稚園などを経営していたり、私学共済の年金を受けていたり、少しばかりですが、「教団年金」があったりしますからね。贅沢をしないかぎりは、経済的に困ることなく生活できています。
 
軽費老人ホームでの生活
 五年ほど前、家内の体調が悪くなり、精神内科で診てもらいました。小脳が萎縮しているという診断でした。それで、老人施設に入ることにしました。適当な老人施設はないか探しましたが、仙台市内にある八年前に建ったという「軽費老人ホームB」を見つけました。
 興味を持ったのは、設計した人がクリスチャンで、有名な老人福祉施設を建てた建築家であること。大学の工学部を卒業後、北欧のスウェーデンで勉強し、最後は大学に戻り今から十年前、残念ながら亡くなられています。
 この建築家の建てた老人福祉施設などがテレビや新聞によく取り上げられていました。そんなわけで、わたしたち夫婦はその方が設計した施設に入所することにしました。
 入所するにあたって興味を持ったのは、軽費老人ホームに牧師が入ると、どういう生活形態が成り立つのかということです。実験的にわたしたち夫婦が入ってみようと、二年間、生活しました。
 一人部屋は一間ですが、夫婦者の部屋は二間あります。それにちょっとした台所と洗面所、風呂場、小さな押入れ程度の納戸が備わっています。割とよくできていたと思います。食事は三度とも決まった時間に施設の食堂で食べました。
 費用は、収入のない人、年金のある人など、収入によって十三段階に区分されていました。わたしたち二人の費用は、食費と部屋代、管理費など合わせて二十万円ぐらいでした。
 ところが食事が気に入らない。刺身など「生もの」が出ないのです。ごちそうを食べたいとは思わないけれど、食事には参っちゃった。わたしのわがままかもしれません。
 もう一つは、管理のあり方です。入所しているのは八十~九十代の人たちですから、それぞれいろいろな背景を持っています。そういう集団を管理するには、かなり気をつかうことでしょう。しかし、管理される側から見ると、自由がなく、干渉を受けているように感じます。管理者はそうは思っていないのでしょうが、わたしたちにとっては、人権が無視されているという感覚です。そのくらい厳しくしないと十分に管理できないのは分かります。集団食中毒が出ても困るし、施設のなかでトラブルがあっても困りますからね。
 入所者は、「他人の部屋に行ってはいけない」とか、「入所者同士のつきあいはいいけど、談話室で」、「物のやりとりはあまりしないように」とかね。そういうことが細かく決められている。頭では分かるのですけどね。
 それに、やっかみ。女性も男性も多くは、一人部屋です。夫婦は、わたしともう一組くらい。そうすると、独身者からうらやましがられるのです。
 軽費老人ホーム(ケアハウス)に入っている人は五十人くらい、特別養護老人ホームには百二十人くらい入所していました。十年前ですが、軽費老人ホームの建物自体は良かったと思っています。
 四階建ての建物で、ゆったりした生活ができ、設備も整っていました。二年ほどいて、「いい勉強させてもらった」と自宅に戻りました。
 
マンションに戻り夫婦だけで暮らす
 そのころ、次男がサイドビジネスに不動産貸付の事業を始めました。そのため資金が必要になり、「土地と家を処分したい」と相談されました。
 それはまあいいだろうということで、家を処分してよそに移ることにしました。家内を介護しながら暮らそうと思っていたところ、息子が安くて設備も良い物件を見つけてくました。現在、住んでいるマンションです。C社が建設した築後十年の物件で、管理がしっかりしていて、そのわりに安い。
 軽費老人ホームを出て、夫婦二人きりで暮らそうと思ったとき、「海岸の波打ち際の見えるところに住みたい」と教会員たちに公言したことがあります。
 そのとき、奉仕している教会の婦人会の連中に、「先生はいいかもしらんけど、わたしたちが訪ねていくのに、タクシー代が何千円もかかる不便なところでは困る。もっと便利なところに居てほしい」と叱られました。
 それで駅の近くに引っ越したら、その人たちが、みんなで遊びに来てくれました。自分たちで勝手にコーヒーを入れ、いろいろな物を持ち寄ってワイワイやっていました。
 ところが、ガンで入院していた家内が帰ってきたら遠慮されたのか、ぴたりと来なくなりました。前は、みんなぞろぞろやって来て、自宅で炊いた混ぜご飯を釜ごと持って来てみんなに振る舞ってくれたのにね。
 二人だけの生活ですから、ベッドの部屋と、ちょっと家具を置いたりした和室。それから、本。ほとんど処分しましたが引き取り手のない古い本が残っています。
 古本屋に持っていっても専門書は買ってくれません。一冊百円でも売れない。「こういうものは受け取れません」と断られる始末です。せっかく集めた本なのにね。線を引っぱったり、書き込みしたりした本は売れない。仕方なく部屋に積んであります。足の踏み場もありません。
 
息子や嫁が訪ねてくれるから
 妻の足はちょっと不自由ですが、杖をつけば歩けます。毎週の礼拝には行けないけれど、それでも月に一回は教会に行くようにしています。三度の食事はわたしが作って、妻と一緒に食べています。食事が終わったら、妻が運動を兼ねて片づけています。洗濯もわたしがやっています。
 去年、家内の甲状腺にガンが発見されました。四つも五つも医者にかかっていたので、高齢だから取らない方がいいだろうと言われたり、肺に転移する恐れがあるので手術した方がいいと勧められたりしました。しかし、ふたりで判断して、手術を受けました。
 ですから、妻はまだうまく声が出せなくてよく聞こえません。わたしの耳が遠くなったこともあるのでしょう。家内の話していることがよく聞こえないのです
 そんな不便なこともありますが、それ以外は何の不自由もなく、誰の制約も受けずに生活できています。息子がちょいちょい訪ねてくれますし、嫁も来てくれます。いろいろ世話をしてくれるので、わたしとしては幸せです。
 
マルタの会と高齢者の悩み
 A教会に、「マルタの会」があります。老人福祉の活動です。今、そういう活動を東北教区でやろうと目指しています。
 六十五歳以上の婦人が集まったとき、「何かやろうじゃないか」という声が上がりました。それがきっかけで、年寄りみんなが元気になろうという運動が始まりました。参加者はどんどん増えています。東北教区センターで開く毎月の例会では、わたしが聖書の話をしているんですよ。
 昨年は、社会福祉施設を見学に行きました。いつか「わたしの土地を使ってください」という人が現れないかと期待しています。もしもそうなれば自分たちの老人ホームを建てられるからです。こういう高齢者の運動は、今日のキリスト教界の課題だと思います。まずは年寄りが元気になろうという運動です。
 この前、こんな説教をしました。『旧約聖書』第八巻の「ルツ記」で、未亡人になったナオミと義理の娘ルツの物語です。
 ナオミは夫を亡くし、二人の息子も死んでしまった。そこでナオミは夫の故郷、ベツレヘムに帰ることを決意。二人の息子たちの嫁には今までのお礼と新たな夫が与えられることを祈り、それぞれ自分たちの故郷に戻るように勧める。しかし、嫁のルツだけは、未亡人になった義理の母親に、「わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と、未亡人になった義理の母親のそばにいることを望みました。
 教会に集まる女性の中にも、夫に先立たれた人がたくさんいます。そのためか、説教を終えると、「久しぶりにいい話を聞きました」、「近頃、年寄りは嫁さんに馬鹿にされていてだめなのだ」など、とても共感されたようです。
 この物語には保守的な部分があります。若い未亡人が、年寄りの未亡人にずっと付き従うのですからね。嫁のルツは、「あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます」。つまり、「あなたの墓場はわたしの墓場だ」というわけですね。
 しかし、一つの革命が起こります。排他的、民族主義的なところがあるなかで、最後にルツはナオミの遠縁のボアズと再婚し、息子をもうける。その子の後の後にダビデが生まれ、その後、イエスが生まれてくる。つまり、これは、包括的な物語です。旧約聖書には、民族的、保守的な話が含まれています。でも、革命的なことも含まれているのです。
 
牧師の老後
 おかげさまで、わたしの人生は恵まれていたと思います。長男は亡くなりましたが、次男も三男もいます。そういう点において恵まれています。
 牧師の中には、「講壇で死にたい」といって、いつまでも頑張っている人がいます。それは一見うるわしいようにも見えますが、「親父、教会の迷惑にならないように、いい加減で引き下がれ。俺が面倒みるから」という子どもがいたら、そういう発言はなかったかもしれません。最後まで講壇で頑張ったら、教会に迷惑をかけることになりかねませんからね。牧師の交替、退くという判断は難しいものだと思います。
 宣教師にも、最後まで頑張るという人がいたようです。ところが、本部のミッション・ボード(理事???)はそれをよしとしない。それでは、奉仕をしたにもかかわらず最後に迷惑をかけることになってしまうからです。
 実際に、Dさんという立派な方がおりました。アメリカの自分の教団が負担した年金まで、日本のために使い、「わたしの老後は、神様の御許にあるから大丈夫。生活保障なんていらない」というのです。
 Dさんのところを訪ねたことが何回かあります。宣教師のDさんのために、百万円だったか二百万円だったか募金が集まり、そのお金を届けに行ったのです。ところが、Dさんはそのお金も施設に捧げてしまった。Dさんは五年ほど前に亡くなりました。美しく人生を終えるのは難しいと思います。
 
老齢社会を考える会から実行する会へ
 福島県の教会にいた最後のころ、労働組合の年金を受けている人たち、農業組合の人たちなど二百人ほどが集まり、「老齢社会を考える会」をつくりました。
 わたしがキャップになると集まりやすいのでしょうか。福島には社会党や共産党の友人がたくさんいて、いろいろ手伝ってくれたのもありがたかったです。「考える会」は、毎月、老人施設を運営している人たちの体験談を聞くことから始めました。
 すると、「考えるばかりじゃいけない」という意見が参加者から出るようになりました。機が熟してきたというのでしょうね。「じゃあどうしようか」と話し合っているうちに、「よくする会」にしようということになり、会の名称を改めました。「考える会」で二年、「よくする会」で二年。合計四年かかりました。
 その後、「『よくする』と言っているばかりじゃだめだ。実際にやらなければ」ということで、「実行する会」になった。それが、福島時代の最後のころです。
 そして、老人福祉施設Eを作ることになり、市民社会の代表として、わたしが筆頭理事を務めました。建設するために募金を集めました。「実行する会」の二百人の人たちは、「俺の面倒をみてくれるのか」、「地域はどこなのだ」とおっしゃった。でも、市の委託を受けてつくる社会福祉施設です。いくつか入所の条件があります。例えば、利用できるのはこの地域の人々というエリアが決められていることです。カトリック教会でいう社会的パリッシュです。
 そうすると、いくら募金をしても、その利益の恩恵にあずかれないことだってあるわけです。
 しかし、「そんな了見の狭いことを言わずに、あんた出しなよ」と言って集めました。もちろん、そう言って募金活動していたわたしも百万円を寄付しましたけどね。
 そうやって、この施設の基礎を作ったのです。人間、やっぱり、自分が身銭を切るというところから社会運動は起こるのだと思います。いいことばかり言っても、自分が身銭を切らないとうまくいかない。
 「考える会」から「よくする会」、「よくする会」から「実行する会」という按配に進んでいきました。今、その施設は、ずいぶん発展して、大きくなっています。
 最後にそこから離れるとき、「ずっといてほしい」と頼まれましたが、宮城から福島へ出かけるのは勘弁してほしいということで、若いアイディアを持っている人に譲って退任しました。

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室