語られたストーリー
2012.02.29 こんなことでは死なない 語り手 (女性 76歳 2010年取材)

 【あらまし】
 米軍機の機銃掃射の中を生き抜いた戦中、赤ちゃんを抱え二階に逃げのびた伊勢湾台風、そして――、つぎからつぎへとふりかかる災難。しかし、祖母と孫娘との語らいは、その悲しみを突き抜け、「こんなことでは…」という力強い言葉に到達する。

 
●小見出し
 国民学校の一期生
 一人だけの学童疎開
 モールス信号
 機銃掃射
 新制中学の一期生
 二十二歳で結婚
 伊勢湾台風襲来
 二階の布団
 三十五歳のおじいちゃん
 
【生年月日と出身地を教えてください】
 昭和九年五月に、名古屋市の中区で、七人兄弟の6番目として生まれました。一番上の兄とは十五歳も年がはなれています。小さい時は兄弟が多いから、子供全員で遊ぶのがすごく楽しくて。お兄さんが夏休みに東京の大学から帰ってくると、もう家じゅう大はしゃぎで。家じゅうどこにでも隠れてもいいっていう、かくれんぼをやって、永遠見つからなくって。次の下のお兄さんなんかは、木に登って隠れてたり(笑)。
 
国民学校の一期生
 小学校に入学したのは、昭和十六年の四月です。その年からなぜか、小学校っていうのがやめになって、「国民学校」っていうことになった、最初の一年生です。最初に習った小学校の歌も、普通だったら、だいたい小学唱歌の最初は、「春の小川」なんだけども。国民学校になったもんだから、「〽みんなで勉強、うれしいな 国民学校一年生」っていう歌を一番最初に覚えました。
 通い始めて、一年生の十二月八日に、大東亜戦争が勃発しました。だから、ほとんど小学校は戦争…の中の学校生活。国全体が戦争モードだったね。その前までも、シナ事変とかずっと続いてて、太平洋戦争って言われる、その大東亜戦争になったと思うんだけど。
 二年、三年、四年はもう、なにをするにも、戦時色。空襲警報が発令されるとパアーッとふせて、目と耳を押さえるのね。爆弾にやられないように。それで先生が、「ガスーーー!」っていう号令をかけると、鼻もふさがなきゃいけないもんだから。目と耳と鼻を押さえる…運動会の日もね、まあ騎馬戦とか元気な物が盛んだったし。四年生くらいになると女の子は長刀を練習しました。たすきをかけて、長刀っていう長い、本当に刃がついている物じゃないけどもね、それがあって、それを持って上段に構えて、「やあ! やあ!」とかなんとか(笑)、そんなことを体操でしました。
 
一人だけの学童疎開
 それで、小学校の四年生の、昭和十九年ですけど、夏休みに、学童疎開に行くことになりました。学童疎開っていうのは、太平洋戦争の末期に戦争の被害を避けるため、大都市の国民学校の児童を、農山村地域に集団的にか、また個人的に移動させた…今までの小学校では授業がないわけだから、どっかへ行くしかないの、子供は。私の場合は、集団疎開っていう、同じ学校の友達と一緒に行くことを選びました。
【おばあちゃんの兄弟は、一緒に行かなかったの】
 うん、兄弟は、誰もその疎開しなきゃならない年齢にいなかったのね。弟が二年生にいたけど、まだ小さいから行かないのね。自分で布団が運べないから。すぐ上のお姉さんは女学校に行ってたし。ほんとに行ったのは、その時は三年、四年、五年、六年と、それだけだから。その学童疎開にちょうど引っかかってしまったのね。大勢の兄弟の中でも、そうしなきゃならなかったのは、私だけでした。
【すごい、大変そう…】
 そいでも、お友達と一緒だから。今でいう、修学旅行に行くようなルンルン気分で(笑)。現実は大変厳しかったけども。もう…戦争だから、子供も覚悟ができてたっていうかね…そうしなきゃならなくってねえ。疎開の心構えっていうか、学校からいつも、朝、授業の始まる前に教えられた言葉は、「疎開は、少年の戦闘配置です。大戦争に勝つためです。早く大きくなって、お父さんやお母さんに安心していただくための疎開です」。あと、まだ長かったけども、ちょっと忘れてしまった。そういうのをいつも唱和してましたね。
 だから、当然行くものだと思って。みんな疎開に行って。それで行った先は、愛知県内の、郡部の方ですけども、お寺にみんな泊らせてもらう。同じ小学校から同じ村の十のお寺へ分かれて。私の行ったお寺は、三十数人でした。半分は六年生がいて、その半分は、三年生と四年生で。だいたい一人に一人ずつ六年生の子がついてくれて。いろいろ世話をしてくれました。
 お寺の和尚さんがすごく一生懸命ねえ、歌を歌ったり、お話をしてくれたりして。お寺も大変だったと今にして思うんですけど。子供が本堂や境内で遊びまわってるし。それと、お寺の周りの人達にも、ずいぶん助けられてるね。五つぐらいの班に分かれてね、近所の人のお家のお風呂に入れてもらいに行ってたから。たまには、おやつをもらったりして。それで勉強は、その行った先の村の小学校へ午後だけ、みんなで並んで行きました。午前中は村の子達がそこで勉強しました。そのうちに、名古屋の家が空襲で燃えてしまったから、家族みんな引っ越しました。小学校だけでも、五つくらい変わってるの(へえーっ)。
 
モールス信号
 でも、それぞれに小学校の特徴があっておもしろいなあ、と今にして思うと。毎朝、朝礼で学級放送があって、モールス信号を覚えてる学校があって。トントントン、ツーツーツー、トントントン、っていうのね。それでね、私、途中から行ってるから、全然知らないでしょう? 
【どんなのだっけ】
 音なんだわ、あれは。トントントントン=「ぬ」とかね。トン、ツー、トン、とかリズムがあるの。それを朝放送で流してね、みんな各自答えを書くのね。毎日、どうして子供がモールス信号やってるのかな、って思ったし。それからまた、違う小学校に変わったら、そこは手旗信号をやってるわけ。赤と白の旗を持って、数字やら、旗の上げ方によって字を表すのね。そのテストが、先生が学校の向こうの方の小高い丘からね、手旗を振るわけ。こっちでその答えを書くっていうテストがあって。それも全然分からない(笑)。途中から行ってるもんだから。
【仲いい友達とかはいた】
 いたね。お友達はすぐできたけど、だいたい疎開してきた子は、疎開してきた子同士でお友達になったね。これだけマスコミが発達してるし、みんないろんな都会にいても、田舎の様子は分かってるけども。あの頃はそういうのは一切ないから。もう本当に田舎は、「まるで違うところに来た!」って感じでね。言葉遣いも全然違うし、遊びも違うしね。
 だけども、田舎に行ってたおかげで、お腹がすいて困るということはなかったね。そこの知り合いのお百姓さんのところで食料を分けてもらったりしてね。食べ物に困った覚えがあんまりないのよね。まずいものは多かったけれども。あの頃は、サツマイモでもカボチャでも、品質よりも大量になるもので。「農林一号」っていうのはホントにまずいサツマイモでね。大きくてたくさん採れたらしいんだけども。
 
機銃掃射
 戦争中は小学校行くのにも、艦載機っていう航空母艦から飛び立ってる米軍機がね、ダーッと空襲で来るのね。それで、空襲警報が発令されると、小学校から帰ることになるの、みんな一斉に。学校においといてくれた方が危なくないと思うんだけどね。ランドセルしょって並んで友達と。上に艦載機が飛んでくると怖くてね、特に子供は狙わなかったと思うの。狙ったらそんなの、一発で撃たれてしまう。
 飛行機が上飛んでるとバーッと畑に伏せるけど、丸見えだわね。隠れる場所ないから。ダーッ走ってね。それで、機銃掃射とかいって機関銃でババババババーッて撃つでしょう。畑の野菜は、パラパラパラパラーと葉っぱが飛んだりしてね。そうやって脅されながら帰ってきた。親はすごく心配してたみたいね。朝、学校出かけてちゃんと帰ってくるかしら、と思う毎日だったと、後から聞いています。
 
新制中学の一期生
【戦争で、日本が負けて、その時にどういう気持ちだった】
 負けるとは思っていない戦争だったもんだから、子供でもね。もう、いざとなったら神風が吹いて敵なんかやっつけてしまうっていう。だけども、そんなものは吹かなかったし。でも、戦争終わってほっとした。学校行くたびにそんな飛行機にね、脅されなくて、空襲警報が発令されることもないし。のんびり行けるからね。
 そのころ進駐軍っていった、米軍のジープがダーッて走るのね。田舎でも走ってるわけ。すんごく大きく思えたの、外人さんが、アメリカ人が。初めは怖かったけど、そう怖い人達じゃなかったから、結局はね。危害を加えられたっていう話は聞かないから。でも米軍がバーッと、ジープが走るようになって、「ホントに負けたんだ」って思ったね。だけども、まあ、ほっとしたのが多かった。
 戦争終わったのが、小学校五年生の八月十五日。それまで親戚の家にいたんだけども、もう少し便利な所に住みたいと言って、引越しをしました。短大の二年生になるまで八年間くらいそこで暮らしていました。木曽川のほとりで、環境がいいところだったからね。
 小学校を卒業する間際に、新制中学っていう、中学が義務教育になって。あと三年、新しくできた中学にみんな行くことになって。今までは女の子は女学校へ受験したり、男の子は中学校へ受験したけどね。中学の場所がないの、新しくそういう制度になっても。だから、小学校の中を半分に仕切って、運動場も半分に仕切って、運動場の真ん中に小さく土を盛ってね(笑)。こっちは小学校の分、こっちは中学校の分、っていう風でね。体育館も四つか六つくらいに仕切って中学校の教室を作ったりして。中学校は友達もいたし、受験勉強はあったんだけども、割とのびのびと、楽しかったですね。
 
二十二歳で結婚
【高校はどんな生活だった】
 高校は…ほとんど受験一色って感じでした、大学受験の。そんなに勉強はしてなかったかもしれないけど(笑)。大学受験のための学校みたいな雰囲気はありました。高校で思い出すことは…修学旅行は九州へ行きました。別府と阿蘇と。行きは夜行列車で、帰りは瀬戸内海を船で。別府から神戸まで船で来て。その修学旅行は本当に楽しかったですね。
 上級生までは、高校は東京方面って決まってたのを、私達の年代では、「東京なんて将来行く機会が多いかもしれないから、どうしても九州へ行きたい」と言い張って(笑)。先生達も上級生も、「なまいきだ!」って言ってきて(笑)。先生達も、初めは反対してたようだけど、どうしても九州へ行くんだ、と言って。どういう風に話がついたか分からないけど、とにかく九州に。そっからその後は、みんな九州でした(笑)。弟の時も。
 次は、高校卒業して、短期大学へ入りました。まだあの頃は女子の場合はあまり大学に行くということはなくってねえ。親も、「大学四年間も行って、家事もなんにも家のことできなくってどうするんだ」というもんだから、短期大学へ行って、経済学を勉強して。卒業して二年間洋裁学校へ行って。
 あの頃は、既製服っていうものはなかったから。お洋服は自分で作るか、どっかに仕立てを頼むぐらいしか。それまで着てた洋服は、たいていね、三人いるお姉さん達が作ってくれたお洋服だもんだから。やっぱ洋服は自分で作れないと困るわ、と思って(笑)。洋裁学校へ二年間行きました。そこを三月に卒業して、秋一〇月に結婚しました。お見合いは三月にしたから。
【そのお見合い相手がおじいちゃん】
 そうです(笑)。
【第一印象はどうだった】
 第一印象…(笑)。初めてのお見合いだったからね。第一印象は…やっぱ私学の卒業生だな、っていうのが一番の第一印象でした。東京の早稲田大学だからね。今まで高校の同級生だった男子の人達は、割りとこの地域の名古屋大学とか、名工大とか行ってた人達が多いでしょう。やっぱし、「東京の私学だ!」って雰囲気はありました。おばあちゃんの一番上のお兄さんと同じ大学ですけど。気楽そうに楽しく生活できるかな、と思ってしまったものだから(笑)。
【そういう雰囲気ただよってた】
 そう。そうです。すごく、元気で明るい人でした。
 
伊勢湾台風襲来
 結婚してから一番大変だったのは、結婚してから二年目に、伊勢湾台風に襲われて。結婚したすぐは、勤務先に都合がいいから、ということで南区の方に住んでいたものだから、まともに伊勢湾台風にやられてしまって。それで家の中に突然水が、わあーーっと(笑)。一階だけだったら本当に溺れてしまうところだったけれども、二階建ての家だったものだから、助かりました(笑)。
 水が来るっていうのは、今まで想像しなかったんだけど、家具も何もかも全部浮いてひっくり返ってしまうのね。畳ももう、めちゃくちゃ浮き上がって、タンスも洋服ダンスも本棚も、ぜーんぶが浮いてひっくり返ってごちゃ混ぜになってました。その時は、子供は生まれてまだ半年だったし。はじめ、下の部屋にいたんだけどね、いきなり畳がわわあ~! と浮き上がったものだから、「どこから水が入ったのかしら!」と思って(笑)。
 そんで、もう逃げるしかないと思って。赤ん坊をひっ抱えて。十分くらい離れたところにある病院の建物があって。その頃はあんまりビルがなかったから、そこへ逃げるしかないと思って。そこへ行こうと思ったんだけど、水できしんでしまって、玄関の戸がどーしても開かないもんだから、逃げるに逃げれない。それで二階へ、階段を駆け上がりました。
 もうその頃は、水がだいぶ深かったものだから。あの時に外へ逃げ出してたら、本当に溺れてたと思う。二階へ駆け上がって、駆け上がりながらすっと下を見たら、洗濯機がもう浮き上がってすーっと台所の中を流れてました(ええええーー!)。駆け上がってよかったとは思ったけども、二階も壁が抜けてしまって水浸し。どっしゃーーん、と壁がとれてしまってて、そこから雨と風が入るし。驚いた状態になってました。あなたのお父さん抱えて、もう家が流れ始めたら、どっちへ傾くだろうとかね、逃げなくちゃならんもんだから。 
 でも、おんぶ紐が下にあるものだから、二階がたまたま台風で部屋干ししてあったおむつをね、こう、シャーっとおむつの布を引きちぎって、つなぎあわせて、おんぶしました。あせってるから、なかなか負えないの。その時はたまたま、お父さん──「おじいちゃん」だわね、会社の夜勤があっていなかったんです。だから、私と赤ん坊だけで。「肝心な時にいないんだからぁ!」と愚痴をこぼしながら(笑)。でも、「絶対こんなことでは死なない」、「こんな人生のはずはない!」と思って、頑張りました(笑)。
【食料とかも流れちゃったよね】
 食料…でも、ああいう状態になるとお腹がすくのも忘れてしまってるから。一番困ったのは、ミルクが必要だったのね。母乳がもう出なかったものだから。ミルクを飲ませてたでしょ。たまたまその前の日に買ってきた新しいミルクの缶を、その頃よく流行った、レース編みのネット状の袋に入れていて、それが冷蔵庫の取っ手に引っかけてあったのね。缶が開けてなかったから、それがぷかぷか浮いているのが見えたの。下をのぞいたら。一階の台所でね。棒かなんか持ってきてね、それをネットに引っかけてこっちへ引き寄せて、うまく拾い上げたけども。
 
二階の布団
 お湯がないね(笑)。粉ミルクだからお湯がいるでしょ。粉のまま、そのままなめさせたような気がする。結局、そんなところにはもうおれないからね、お父さんがあくる朝帰ってきて、一晩いたけどもね。全然水が引いてかないの。
【おじいちゃんは、無事帰ってきたんだ】
 お父さん(語り手の夫)はね、無事に帰ってきた。会社は港区だから、向こうの方が大変かしらと思ったけども、家の方が土地が低かったのね、結局。低ければ水が来るから、そばに海も川も何にもなくたって。途中から水があるから、お父さんは帰りながらものすごく心配して帰ってきたようでね。それで帰ってきた時に二階の窓からお布団が干してあるのを見てほっとしたって(笑)。びしょぬれになった布団を干したのね。
 お隣の家の人がね、ご主人がやっぱりお父さんとおんなじところで夜勤だったの。それで、ちょっと先に帰ってきてね。助けに見に来てくださったものだから。「お布団だけでも干しましょうか」って言って、びしょぬれの布団を干してくれたからね、二階の手すりに。だから助かったけれども。食料もあんまりないし、隣の家の子は熱を出してね、まだ赤ちゃんだったけれども。だから悪い病気がこういう時は流行りそうだし、そんなところにいちゃ危険だからということで、ジャボジャボと水の少ない引き潮の時期に時間を見計らって。内田橋というとこの辺まで歩いて。
【うわー…とにかく、みんな無事でよかった】
 みんな無事だったからね。ホントに助かったら何にもいらないと思ったから。持ってたお嫁入り道具のタンスも、なにもかも、着物も全部だめになりました。塩水だから、着物も持ってきて干したけど、結局だめね。塩水に浸かったものっていうのは、助からない。洗って干したって。
 でも…無事だったから何にもいらないわって、その時は思ってしまって。お父さんも、「また買うからいいよ」って言ったけど、そう買ってもらえたわけじゃない(笑)。写真とかは全部なくなっちゃったから、それが一番残念でした。やっぱり写真がなくなるとさみしいね。後で買えるものじゃないから。
 伊勢湾台風はね…災害っていうものは、天災は仕方ないけども、戦争だけはやっぱない世界にしたいね。
 
三十五歳の「おじいちゃん」
 とにかく、伊勢湾台風終わってから、今住んでる所に引っ越してきて。お父さんとその弟が生まれて、ここで住むようになって、今があります。
 もう一つ大変だったのは、旦那さんである「おじいちゃん」が、三十五歳で、病気で亡くなったことです。その時、お父さんは幼稚園の、五歳だったからね、幼稚園の年中さんと年長さんの間。弟の方は、まだ一歳と五か月でした。それでどうしようかと思って、本当に大変で、意外と短い期間だったからね、入院してたのが。
 私が働きに出るしかないかな、と思って。子供二人をおじいちゃんとおばあちゃんに面倒見てもらって、私は会社勤めを始めました。それまでに務めたことがなかったものだから、結構慣れるのは大変でした。一般事務ですけど、会社の中が広いっていうのにまずびっくりして。まあ一生懸命やって。結局、その会社に二十六年間お世話になりました。だけど幸いみんなね、上司とか先輩が親切な立派な人ばっかりだったから、そんなにいることができたんだと思う。
 今は一番気楽過ぎるというか(笑)。安気に過ごしてます。平和はいいねえ。でも、あまりに年を取りすぎたものだから、私の考える「おじいちゃん」っていうのは、いつまで経っても三十五歳なの、死んだ時の。三十五歳でしょ? こっちばっか年取ってくからね、残念だけども。年には逆らえない。なるべくなら年取りたくないのは、誰だって思ってるからね。逆らえないけども、なるべく元気でやっていけたらいいなと、思っています。
 

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室