語られたストーリー
2011.02.18 どん底の中で「奇跡体験」をして 語り手 (男性 74歳 2006年取材)

 【あらまし】

 東海地区の田舎から東京大学文科一類に入学した東山俊彦。エリートコースである法学部に進まず、哲学科に進んだ。中学の時に体験した敗戦で、「自分の土台」となる思想を確立したいと思ったからであった。
 しかし、卒業論文執筆で苦しんだ。苦しみながら周りの人々からの支援により卒業できた。その卒業論文を主任教授が高く評価してくれて、特別研究生として奨学金を与えられた。大学院に入学してしばらくして、その主任教授が突然亡くなった。後任の主任教授からは評価が低く、修士論文の指導も受けることができず、博士課程に進学できなかった。
 その後、家庭教師と非常勤講師一コマだけの生活の中で追い詰められ「どん底」を経験し、自殺をしようと思っていた。その時、いままで支えてくれた両親や友達のことが思い浮かぶと同時に、恩師である牧師の説教を思い出した。そして、自分の不幸を「神」に訴えた。そのとき、「神の声」が聞こえた。その後、大きく人生が変化していった。「どん底」からの立ち上がりストーリーである。
 
●小見出し
 卒業論文でお世話になって
 大学院に入学して
 可愛がってくれた恩師が亡くなって
 非常勤講師として働き始めて
 東大を訪ねて就職活動をして
 「どん底」の中の「奇跡体験」
 
卒業論文でお世話になって
 一生懸命やってね。だけども卒論が大変でね。僕は本当に頭悪いと思うけれども、どんだけ考えてもまとまらん。ほんで、お世話になっとった教会の先生がね、これまた本当にご苦労をかけたんだけれども。十二月二十五日が締め切りで、十一月半ばになって、
「今、東山さん、卒論がまとまらないんで、困ってらっしゃいますね」
「はい。そうです」
「私がお手伝いできたら、してさしあげるんだけれども、私生物の教員でしょ。できないから、どなたが手伝ってくださる方いないものかと思って、探し回ったところ、この方がってね。旧制度の大学院生で、あなたの先輩にあたる方が、『なんでも手伝ってあげる』って、言ってるんだけども。お世話になりませんか」っておっしゃった。その先輩見たら、本当に優しい顔して、にこっとして。
「僕でよかったらなんでもしてあげるよ」って。
「お願いします」っ言ってね。
 それから一か月毎日通ってくださった。ところが二十三日に清書に入った時に、あんまり内容が乏しいので、こんなの駄目だって思っちゃった。
「先輩、すみません。僕、こんなんじゃぁ、よー出さん」と。はずかしくて。うだうだ言ったら、
「東山君、そう言うなよ。だって君一年延ばして、来年今頃になって出せる自信があるか。また同じことを言うぞ。人間一ぺん喧嘩に負けると、負け犬根性がついて負ける。そしたら、君どうなる。生涯卒業できん。いいから出しなよ」ってね。
 僕が、今はもう亡くなった、小柄の西山先生(牧師)のところに飛んで行ってね。先輩がこういうこと言ったんだと。その頃はその先生が一番相談相手。
「先生、僕、一年留年しようと思います」
「どうしたんですか」
「あんまり卒業論文の内容が乏しくて、はずかしくて出せん」
「そんな、ご自分の卒業論文を出来が悪いって、太鼓叩いて、ご自分で宣伝なさることないじゃないですか」と、笑顔して。
「だって、本当に出来が悪いんですから。ちょっとぐらいだったら」今度はまじめな顔して、
「東山さん、卒業論文の出来を判断するのはあなたじゃないでしょ。教授の方が、そのためにいらっしゃるんでしょ。その判断は、教授の先生方のご判断にお委ねするのが学生としての筋じゃないですか」と。
「だけど、僕のことを可愛がってくれる上田先生に、こんなはずかしいもの出せない」ってね。
 上田先生だけ可愛がってくれたの。その先生がなんで僕を可愛がってくれたかって言うと、担当のゼミで第一回目が終わって先生が、「今日はこれまで。じゃあ来週まで」って出て行かれた後、「先生、質問です」って。
 先生、聞こえんみたいに、とっとと行っちゃって、追いかけて、
「先生、お願いします。質問です」って言ったらね。やっと振り向いて、
「君は何年生かい?」
「はい、三年生です」って言ったら、
「四年生になったら、おいで」って。にこにこしておっしゃった。けれども、諦めない。
「先生、五分でいいですから、イエ、三分でいいですからお願いします」
「本当に五分だよ」
「ハイ、先生、ここのところ、こうこう…」で。
「わかりました。先生ありがとうございました」って。とうとう五回目にね、また行くと、「ところで、君、名前なんて言ったかね」って。「はい。東山俊彦、三年生十八番」とか言ったの。
「東山君、君よく勉強してるね」でね、結局、その一言だ。この一言、今でも忘れんよ。
 
大学院に入学して
 卒業判定。他の先生の口頭試問きびしかったよ。
「君の論文は引用が一つもないね。若いんだから、もっと参考文献を読み漁って、どんどん付け加えたら内容が増えたと思うが、君は一つも引用がない。本文の引用だけだ」と。
 なぜそうなったかと言うと、高校の時にニューマンの「大学論」を教えてくださった田村先生がね、「哲学を読むのに、参考文献とか、そんなものを使って、本文を理解しようと思っても駄目だ。真正面から本文自身と取っ組み合いする。それが学問」って言われたんで、それをやっとったわけ。それで論文、落ちると思ったら、パスしたでしょ。今思うと上田先生の主張で。
 謝恩会って言うんですか。昔、予餞会って難しい言葉を使ったね。そこで、上田先生が、
「諸君の中に、自分の卒業論文の出来が悪いと自分で思い込んで、小さな胸を痛めておる人がいるかもしれないが、それは君自身の目で見て出来が悪いと思い込んでいるのに過ぎないのであって、我々の見るところは違うのだ。我々は、君の卒業論文から覗いている哲学者(フィロゾーフ)としての素質(アンラーゲ)」を見る。その我々の眼から見ても、君の論文は光っていた」とおっしゃった。
 僕はもう、嬉しかったし、びっくりした。帰り道、雨が降る中、自分へのお祝いとして、生まれて初めてウイスキーを飲んで、足をふらつかせながら嬉し涙で歩いた。先生から「優」をつけていただいたね。十八人の同級生の内で、二人だけだった。そして、あろうことか特別研究生になっちゃった。特研生。修士入った人と博士入った人と一年のうちで、一人だけ選ばれる。特別に奨学金がもらえた。当時は一万五千円で、大体大卒初任給ぐらい。今で言うと十八、九万。それいただいたわけ。
 これはどういうことになるかって言うと、つまりはそれをもらう人は先輩と交代で、毎朝八時半に来て、お茶を沸かして、先生のおいでを待って、お茶を出す。で、先生の言いつけをなんでも聞く。それになったわけよ。上田先生、僕が最初になってお茶を差し上げたら、「これから君にはいろいろ世話になるねぇ」っておっしゃった。
 
可愛がってくれた恩師が亡くなって
 だけども、それから半年も経たないうちに、
「東山君、僕何月何日に肺の手術をすることになった。肺結核だって言うけどおかしいんだ。放射線でやったから、肺がんだと思う」で、手術当日に亡くなったわけ。手術の失敗だわ。肺水腫というので肺に水がたまって、呼吸ができない。五十七歳でね。それからA教授が主任教授になられて、しばらくしてある時、院生と教授と一緒にお茶を飲んどった時、
「ところで、東山君は特別研究生ということになっているが、これは何かの間違いであって、君は学部の成績もよくなかった」と。
 A教授には、もともと別の秘蔵っ子がいたわけ。博士課程入って、僕が修士課程で両方候補だったんだ。「結局、上田君があんまり頑張っちゃったから、君のとこ行っちゃった」って言うんだね。先生としてはおもしろくないでしょ。それですぐ僕は助手に呼び出された。廊下に。
「東山君、主任教授に睨まれたら、生涯、浮かばんぞ」って。僕、何のことか分からんかった。後で、どこにも就職できんということだと分かった。
「そんな、あんな白髪の爺さん一人に睨まれて、僕の生涯駄目になってたまるか」って思ったよ。だけども、実際は修士論文見てもらう人が他に思いつかなくて、その先生のところに行ったわけ。計画書作って。そしたら見てくれないわけ。修論の計画書。説明しかけたら、「それでできると思うんだったら、やってみたまえ」っておしまい。で、それでここにつきますって言ったら、「五分損した」と言って、突き放されたわけ。今度こそ誰も見てくれないわけで。修士論文を二年のところを三年かかって、一生懸命書いたけども「良」だった。それで、不合格だ。博士課程。
 
非常勤講師として働き始めて
 それで、西山先生が駆け回ってくださって、明治学院大学の、先生の友人の哲学教授を口説いて、病弱だった先生の代行で、夜学の非常勤講師ってことにしていただいて。三年間やったけれども。週一コマだって。学生はすごい喜んでくれたの。これは嬉しいと思って、来年も一コマ。論理学だったから、哲学史やらしてほしいと思って、その譲ってくださった先生のところにお願いに行ったの。
「先生もう一コマできたら、哲学史をさせてください」って言ったら、
「一コマどころか、二コマも三コマでもぜひ君にやって」と。「そうですか! ありがとうございます!」
「いや、それは先の話で、今は教養に一人定員を増やしてもらう交渉を大学としている最中で、もし増えたら君を第一候補として推薦する」って。でも、二年目になってもまだ話がないから、「先生どうですか」って聞いたら、「いや、まだ定員が増えてない。」
 三年目の前にしびれ切らして言ったら、
「まだ忍耐してくれたまえ」と。で、もう一人別の先生と知り合いになっとって。
「実際のところどうなってるんですか」って聞きに言ったわけ。そしたら、「増えることは今交渉中だが、仮に増えたとしても君はだめだ」
「どうしてですか」って聞いたら、「博士課程行ってないから、内規上駄目で、博士論文を仕上げてなくても、最低、満期退学っていうことが条件だ」って言うの。で、僕はショックだった。で、どうしたらいいかわからなくて…博士課程に戻らんとどこにも就職できんってことだね。
 
東大を訪ねて就職活動をして
 それで、ここが僕の考えの狭いところだけれども、東大のある若手助教授とこに相談に行ったの。クリスチャンだってことで、ちょっと気を許してっていうか心頼みで。
「先生、博士課程少なくとも修了してないと、どこも就職できないと言われたんですが、どうしたら戻れるでしょうか」って聞いたら、
「君に一つ聞きたいが、今、勉強はどのように進んでいるかい?」って。
「将来どうなるかと思うと、不安がいっぱいあって、なかなか思うように進まなくて、今この辺をことことやってます」と。すると、
「君の話を聞いていると、君はいよいよジリ貧だね。悪いこと言わん。方向転換を考えたらどうだい」って。
「方向転換って、どういうことですか? どこかの会社に就職するとか…」って聞いたら、「学究として身を立てることを諦めて、就職口を探すことだ」と。
「会社とかで伝票数えたりする仕事でしょうか」って言ったら、「うん。そうだ」って。
 法学部を蹴って来た道でしょ。いまさらその学問を諦めろって、そりゃあもう、その時の僕にとっては「死ね」というのと同じ。
「貴重なお時間を割いてくださってありがとうございました。失礼します」ってね。
 外へ出たよ。で、市ヶ谷の駅だったと思う。雨が降ってたけれども、橋の下に電車が通ってね、市ヶ谷の駅が見えとってね。「これからどうなる」って思ったらね、足が前に出ないの。つまり、「足を一歩前に出すってことに、何の意味があるか」って、そう思えた。普段そういうこと思わないよ。で、「傘差してることも、何の意味もない…」その傘も落としちゃって。風呂敷包み持っていたのも落としちゃってね。あの脱力感っていうのはあるんだな。生まれて初めて。 
 やっと気を取り直して、電車に乗って目白まで帰った。それでね、職探しやったよ。僕は、会社勤めはどうしても嫌だったから、一応、高校一級の免許は取得しとったから、高校を探した。友人のお父さんが、当時有名な高校の英語の主任だったから、そこにとことこ行ったわけ。
 僕の履歴書見て、「東山君、君、哲学科出身だね。東京ではね、英文科の博士課程まで出て、中学の英語の教師にさえなれない青年が五万といる。君は哲学科で修士だから、いいとこ高校の社会科の先生。そのうち倫理とかやれることになってるようだから、それでも探すか」って。駒場高校。今の妻の母校だけれども、そこの社会科の先生に紹介されて行ったの。そしたら、しばらく待たされて、
「あんたが東山さんですか。お待たせしました」って言って、出てきて。
「あんた高校の先生になりたいんですか、学問やりたいんですか。どっちなんですか」って言われて、
「もちろん学問です」と。そしたら、
「駄目です」って。
「高校の教師になったら、毎日学問から遠ざかっていくばかりです」とおっしゃった。ほいでもうこれ以上就職活動できないからね、帰ってきたよ。今でも思い出す。あの木の古い校舎でね。
 結局、家庭教師を続けただけでね、ずっと。ほんである晩、どこかから帰ってきてね。金曜日の夜、明治学院行く以外は、週四回家庭教師だ。皆さんが、仕事終わって帰られる夕空を仰いで僕は出勤だ。で、今でも思い出す。夕焼け雲がニュージーランドの格好しとった。それが、「元気出せ」って。「これからいいことあるぞ」って言ってくれた気がした。昼間うちにいたでしょ。昼飯も食堂行くと高いからさ、八百屋に行って、うどん2玉とねぎ1束と買ってきて、食うわけよ。その買い物かごを提げて、坂道を上がるときにね、太陽が背中を押してくれた気がした。「元気出せ」って。あの感覚忘れん。
 そんな中でね、ある晩、バイトから帰ってきて、干した洗濯物を取り込もうとしたら、やっぱりその頃ってね、自分の将来どうなるかって思ったら、真っ暗って感じよ。真っ暗ってね。手でつかめる感じよ。黒さが。実体があって。そんで、ある晩なんか正常な意識でおるのが耐えられなくなってね。酒屋に行ってね、酒、よー飲まんから、ぶどう酒の甘いやつ買ってね。で、一気に飲んじゃった。そしたら、なんか、いい機嫌だよ。でも、さめるでしょ。さめた後の虚しさ。
 そんな頃ね、亡くなった牧師の親友の、B女子大学の学長さんが、
「東山さん、遊びにいらっしゃい」って。行ったら、
「あんた顔色悪いですね。食べるもの食べてらっしゃいますか」って。「悪いこと言わん。一ぺん医者に精密検査を受けなさい」って。で、医者に行って、同じように十何人、胃のレントゲン検査を受けたら、僕だけ残された。
「あんた今日の横綱です」って。レントゲン写真見ながら、
「あんた何歳ですか」って言うから、
「二十六歳です」って言ったら、僕の顔を見て、
「えー、信じられない。あんたが、東山さん? あんた本当に若いですね。このレントゲン写真だけ見てると、推定年齢五十歳。朝晩、焼酎がぶ飲みしている、むちゃくちゃな不規則な生活しとる人としか思えません」って言われて、黒板に絵を書いてね。
「右のこの辺に潰瘍があって、繰り返し治ったり、できたりしているうちにケロイド状になって、池の周りの堤防みたい。これ進むと癌になる」と。
「ちょっと、こっちにいらっしゃい」って、隣の標本室があってね。大きな部屋にガラス鉢がばぁーっといっぱい並んでて、「この方とそっくり」って。「大学の助教授でね、この間亡くなった」って。これもう真っ青だよ。それで、
「君は年が若いから、切らずに治す工夫をする。外科病院に入院しなさい」って言ってね。ひと月か、ふた月だったかな。退院させられたけどね。
 
「どん底」の中の「奇跡体験」
 退院してからが、痛くなったね。「癌になる過程」って言われたでしょ。就職みつからんでしょ。「学問諦めろ」って言われたでしょ。で、帰ってきてから、フッサールを読もうとしても、そういう中で読めんでしょ。読めないね。字の上を目がすべるだけ。ほいで泣き出した。今思うと、この泣き出すっていう人間の機構ってすごいな。自然のすごいメカニズム。潜在意識でしょ。頑張っとった心の殻が壊れちゃったわけよ。僕の解釈だよ。
「僕はやっぱり、学問も駄目だって言われたとおりだ」って。その時に初めて田村先生のこと恨んだ。
「先生に出会ったばっかりに。頭悪いのに、『学問は頭の良し悪しと関係ないって』って言ってくださった。それをすっかり信じたもんで、柄にもない哲学科にまで飛び込んでこのざまだ」と。ちらっと思ったけど、すぐ申し訳ないと思ったけどね。「どっちにしても、もう生きていけん。僕は人生の道を踏み誤った」この言葉ハッキリ浮かんだ。いまさら取り返しがつかん。二十八にもなって、新しい道なんて。当時は思いつかんわけ。だめと思い込んだわけ。
「どうにもこうにも生きていく道がない。死ぬしかない」と思って。引き出し開けて、前に自分で研ぎ上げたナイフで手首を切ろうと思って。腕をまくってこうやったけども、なんでか焦って、どうにも脈が分からんわけよ。
ほいで、頚動脈をさぐっとった時に、親のことが浮かんできて。初めて「いかん」と思った。親に苦労をかけたと。十何人家族で、毎月少しのお金を送ってくれてて。親父はタバコを断って、母親はお茶断ちをした。昔風だね。ほんで、本当に細々(こまごま)と息子のために心砕いて頑張ってくれた。
 それで、もし僕が手首を切ったら、血がばーっと出て、地面に吸い込まれるでしょ。それと同じように、親の苦労がその血のように地面に吸い込まれてまったく無駄になると思った。そのイメージが浮かんできた。それで「絶対いかん」と思った。絶対いかんと思ったよ。
 もう一つは、「ここで死んでたまるか」と思った。もちろん西山先生が心砕いてくださったこともね。そして同級生が、「東山君、悩んでいるんだなぁ。自分で書こうと思っても書けない時って分かる。俺が話を聞いてやるから、君しゃべれ」って。「そしたら、俺がメモ取って、なんとか形つけてやるから」ってね。修士論文をまとめてくれて、清書までしてくれた。で、とにかく修論はできたわけ。
 だから、友人たちや卒論を手伝ってくださった先輩のことも同時に思ったね。「絶対、死んだらあかん」と。そしたら「死ぬにも死ねん。でも、生きるに生きれん。どうしたらいいんだぁー」って思った時にね、もう亡くなってた先生が浮かんでくるんだね。八畳間二つの小さな教会だよ。西山先生から、九年間で五百回以上は説教を聞いてるはずだけど。そのほとんどを忘れてたのに、その晩、ある日の説教が浮かんできてね、
「ひょっとしたら、皆さんの中にご自分のことをつまらない存在、居ても居なくてもどうでもいい存在、と思ってらっしゃる方がいらっしゃいませんか。もしいらっしゃったら、その方は大変な間違いをしてらっしゃる。
 なぜかと申しますと、それはあなたがご自分の目でご自分を見てつまらないと思ってらっしゃるに過ぎないのであって、もっと大きな目、宇宙くらい広い目、宇宙をお造りになった神様の目からご覧になると、あなたはなくてはならない大切な方でいらっしゃいます。
 なぜなら、神様は一人も無駄な方はお造りになりません。どの方にも、その方でなくては果たせないご用向きを与えてお造りになったんです。ですから、もし、あなたがいらっしゃらないと、神様のお造りになった世界は、あなたの分だけ不完全ということになります。だから、あなたは、なくてはならない大切な方。ゆめ考え違いなさりませんように」とね。
 覚えておった記憶がないんだけれども、その晩にぱっと浮かんできたよ。「神様が僕を造ったんだ」と。僕は、「それなら、ちょっと神様に言うことある」と思って、四畳半の部屋で。もう夜遅かったよ。十時過ぎとった。窓開けてね、夜空を見てね。
「神様、あんたおるんですか」ってまず聞いたよ。
「わしも子どもの頃から二十年以上教会に通っているけれども、いくら考えても神様おるか、おらんかわかりません。でも、もしおるなら、言うことあります」って言ったの。
「あなた造ったそうですね。頼んだ覚えありません。あんた勝手に造った。造った以上、責任取ってください」だんだん声が大きくなったね。「責任取れ! 頼んだ覚えないぞ!」って、乱暴な言葉になってね。
「あんた造っておいて、ころっと、忘れとるんとちゃうか。忘れとるなら、この際思い出して、与えたとかいう役割、そいつを果たせるように、道を開いてやってください。おるなら返事しろ!!」って。どんどん大きな声になってね。夜中なのに下宿のおばさん飛んでこなかったんだわ。
 神様から返事ないから、机たたいてね。それから、柱をガンガンガンって、壊れるなら壊れてもいいって本当に思ったよ。でも、壊れんわな。そしたら、今度は畳の上にひっくり返って、子どもが駄々こねるみたいに、どったんばったんやってね。
「返事しろ!!」ってわめき散らしてね。結局、何時間かして、くたくたになっちまってね。ほいで、さっき頭をぶつけた柱にもたれた。その時にまたふっと浮かんできたね。
「西山先生、『神様が造った』って言った。そしたら、出来の悪い僕は、僕の責任じゃないんだな。造った神様の責任だな」
 そこで、一人の後輩が浮かんできた。彼はどえらい優秀でね。僕の後に特別研究生になった。彼は一〇〇点、僕三〇点と思ったよ。彼は当時有名な高校も出て、優秀だ。それに比べると、僕は百姓の孫で焼麩屋のせがれでね。我ながら頭はよくなくて、すぐ感情的になって、コントロールできない自分。ほんで、三〇点だ。
「だけど、これは僕の責任じゃないし、その彼の一〇〇点は、彼の手柄でもない。しかも、彼はその一〇〇の素質をどれだけ生かしているか。仮に、六〇しか生かしてないかってことになると、怠慢だ。生かしきってない」そこにいくと、
「僕は初めから三〇。三〇しかできないはずで、その三〇をこれ以上できんってくらい生かしまくったら、文句あるか」って思ったら、その途端にどこから響き返したかわからんが、
「文句なし」って大声で言われた気がした。
「文句なしだ。そうだぁー。文句あってたまるか!!」って思ったら、わくわくしてきた。「やりゃあいいんだろう、やりゃあ!!」って思ったね。これが僕の決定的な立ち上がりだね。
 それから二、三日して、僕のことを心配しとった先輩がね、
「東山君どうだい」って言った時に、
「元気ですよ!」って大きな声で言っちゃったから、彼びっくりしてね。
「何が起こったんだ」って。それでね、
「うん。別に」って言っとった。そしたら今度、ある宣教師の外国人のおばさんの所に行った。「東山さん、何があったですか」(英語)って言うから、
「なんでそんなこと聞くんですか」って聞いたら、
「Your foot steps!(あなたの足取り!)」って言った。今あんた玄関入って来る時に、今までと全然違う歩き方…。
 僕が悩みのどん底にいる時に、切々として、自分の人生がふさがれたって、英語で何ページも手紙を書いたことがあったよ。そしたら、返事がきた。開けたら、白紙に一行、「God has many good things in store for you.(神はあなたのために善きことをいっぱい準備している)」そういう手紙って忘れんね。一行だから何べんでも見るもん。
 もう一つ、あった時の言葉で、「If God shut the door, he opens a window for you.(もし神がその戸を閉めたなら、窓を開ける)」この言葉、本当は、another(もうひとつの戸)なんだけど、彼女言い換えてa window(窓)って言ったね。窓は普通出入りするところじゃないけれども、出れるわな。その言葉はもう忘れんね。
 ほんでわくわくし出したら、ここからね、電撃的な人生の展開。もう、それまでの自分からは想像もできんくらいにすごい人生になってきた。今日までね。僕の人生の大展開のカギはね、一言で言うと、
「自分で、自分の力、努力で生きてる」ということに、行き詰まったギリギリの所で、「こんな三〇点の男が、実は宇宙の大きな力によって生み出され、生かされている。僕は今のありのままの自分にできることを精一杯やればいいんだ」と気づいたことにあると思うよ。

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室