語られたストーリー
2011.02.18 江戸っ子の「戦争体験」 語り手 (女性 78歳 2007年取材)

 【あらまし】

 東京での「戦争体験」を3回に分けてインタビューしてまとめた語りである。
 語り手は、自分史を出版。その作品の中で書かれた「戦争体験」について、詳しく聞き取りをした。
 東京での空襲を経験した筆者は、この時十六歳。戦争は、人生の「原点」であると語る。多感な時期の少女が見つめた戦時中の東京が臨場感を持って伝わってくる。広島や長崎の原爆の被災者は追悼されるのに、東京空襲で殺された十万人の人たちのことはあまり振り返られていないこと。戦争中の苦労と戦後の苦労の違いなど、「戦争を知らない世代」には、戦争の実態を知る手がかりとして読めるであろう。
 
●小見出し
 人生の中でいちばんの記憶
 強制疎開で家も店も壊されて
 女生徒も強制労働に
 思想統制で殺された人も
 隣組と配給制度
 激しい空襲に死を覚悟
 戦争後の苦労
 
人生の中でいちばんの記憶
 私は、今も戦争を恨んでいます。
 戦争のせいで、私の顔の半分は今も麻痺しています。空襲で逃げる時にケガをしたものです。このことを他人に言ったことはありません。長い間連れ添っている夫にも言っていません。ただ、この顔の麻痺を思うといつも戦争のことを思い出します。
 一生の中の一番の記憶は、戦争です。昭和二十年、私は十六歳でした。
 
強制疎開で家も店も壊されて
 十三歳から十五歳のころは、いろんな本を読みましたね。でも、読んだのは、その辺までです。自宅が「強制疎開」にかけられて、取り壊されたのです。軍隊がやって来て、鉄アレイみたいなので、がんがんやって引き倒すんです。大慌てで引っ越したもんですから。持っていた本は、父が処分したのか半減しましたね「一週間でどけ」って言うんですからね。
 父は印刷業でした。普通に生活してて、商売をしてるんですよ。それを壊すのです。補償もありません。戦争のためだからです。空襲を受けると家が丸焼けになります。その延焼を防ぐために家と家の間を何百メートルも空けるのです。区役所が決めるのか、誰が決めるのか知りませんが、ある日突然、「お前さんとこねぇ、引っ越してくれ」というわけです。
 焼けた家もあるけど、焼けないうちに取っ払われた家もある。で、私の家もそうだったんですよ。あんなちゃんと印刷業やっていたのに。今なら権利主張して大変なんですけどね。強制疎開で家を壊されると、空き家を見つけるか、田舎に引っ越すかです。わが家は近くに家を見つけて引っ越しました。根岸です。その家も燃えて、もう一回逃げたんです。私たちは、結局、三遍も災難にあいました。ですから、一番物持ちだったのに何もなくなって。家が焼けたりしなかったら、あの反物が全部あったら、生活に困ることなかった。けれども、みんな燃やしちゃったんです。
 
女生徒も強制労働に
 昭和十六年、十七年に、高等小学校のとき、軍需工場に行かされました。朝礼が終わると、「回れ右、歩調を取れ」と号令がかかり、裏門を出て、軍需工場に行くのです。
 受け持ちの先生も一緒です。女の子は、部品のネジ巻く作業でした。流れ作業です。その部品が、何かはわからないんですけどね。とにかくクラスのみんなが同じ仕事をさせられる。そんなことが週に何回もあるのです。学校に行く日と、軍需工場に行く日と交互でした。
 昭和十八年、学校を出たあとも、家にいると徴用に取られました。徴用というのは、男だと「赤紙」が来て兵隊に、女は強制的に軍需工場に行かされました。慣れない仕事で指を落とした人もいました。
 
思想統制で殺された人も
 有楽町に日劇がありました。日劇ダンシングチームがあって、大変有名だったんですけど。
 戦争中はそうした劇場は閉鎖されました。閉鎖して何をやったかというと、大きな和紙を、のりで貼って爆弾を作る。それを落下傘みたいに飛ばすんです。アメリカまで飛んで行くと本気で思っているのかしら、日本の軍部は。不思議に思って、
「どこで、日本の飛行機を作ってるの? 東京の真ん中で紙を貼って風船爆弾なんて作って役に立つのかしら」大きな声で言ったら、父に口をふさがれました。あの頃はそんなことを言ったら憲兵に連れて行かれましたからね。
 私よりちょっと上の年代ですが、沢村貞子という女優さんが、戦争中に留置場に入れられちゃった。というのは、戦争を批判したから。誰が考えたっておかしな話です。ただ、みんなは黙ってただけ。でも、沢村さんは大きな声で言った。だから監獄に入れられちゃった。留置所だけで終わらなかったらしいですよ。
 女でさえ、そんなことを言ったら連れて行かれちゃうんです。まして、男がそんなことを言ってごらんなさい。一晩で叩き殺されちゃった人もいるんですよ。共産党員ですけど。  
 築地小劇場の演劇関係の人が、軍部反対、戦争反対のことを言ったんですね。そうしたら、築地警察に連れて行かれて一晩で殺されちゃった。拷問がすごいんです。本当に殺すまでやる。だから、共産党員の徳田球一とか野坂参三とかは、その頃とらえられた。あの方たちは死なずに、戦争が終わったら戻ってきましたけどね。でも、死んだ人もたくさんいますよ。父なんか、私がなんか言うと、すぐ口を押さえた。
「言ってはならん」と。
「お前、うちだから、お父さんが止めたけど、外へ行ってそんなこと言うなよ」と厳しく言われました。
 
隣組と配給制度
 空襲がひどくなると、東京の人たちは疎開と言っても、ままならなくなった。区役所の証明書が必要なんです。どこどこに親戚がいるから、そこに疎開したいと申請するのです。私は子どもでしたから正確じゃないかもしれませんが、切符の入手とか身の回りの荷物を送るのでも制限があったんですね。
 そんな時代ですから、個人の意思でね、家出しようなんてまず不可能です。とにかく食べるものがない。
私が腹膜炎で寝込んだときも、お医者が勧めてくれた、卵も牛乳も手に入らない。区役所では病人だから卵1個と牛乳2本配給すると紙に書いてはくれるのですが、品物はない。結局、紙はもらっても現物をもらったことは一回もありません。
 戦争というのは、個人の意思とか、幸せを全部奪ってしまいます。
 結婚式の式場に召集令状が届いた人が近所にいるんですからね。だから、個人の幸福を奪う「戦争はやっちゃいけない」って、あの頃戦争を経験した人は声を大にして言ってるわけです。
 仕事行かないと、誰もが徴用されました。うちでぼやぼやしてると。なんか役所から来るんですよ。だからどこかに勤めないといけない。
 芸者屋で、お妾がいたんですが、そういう人は職業を書けない。父は班長だったので、地域の家の「誰がどこの学校に行ってる、どこの軍需工場に行ってる」と調べて役所に報告しなければならない。軍需工場行ってない人を徴用するためです。
 父だって困るんです。お妾さんだとわかっていても「お妾」って書けない。仕方なく「無職」と書く。そうするとその人は軍需工場に行かされました。かわいそうに、今まで三味線を弾いてたのにね。
 芸者さんは、私のそばにいっぱいいました。川を渡れば新富町で花街。夕方になると芸子さんがきれいな着物を着て人力車に乗ってお店へ。十二、十三歳のころでしたから、そういうのに憧れて、「わぁー素敵だぁ」と眺めてたんです。その人たちまで、モンペを履いて、軍需工場に行かなきゃいけなくなった。
 昭和十六年十二月八日に開戦。その頃から戦争の色が濃くなり、いろんなものが全部配給制になって、お米も味噌も醤油も着物も何から何までが全部配給になりました。一人ずつ切符が支給され、その切符がないと一メートルの布も買えない。お風呂屋さんで手ぬぐいを盗られちゃう。体がふけなくて大騒ぎしたことがあります。
着ている物まで盗られたことがあるの、お風呂屋さんで。父に、洋服を持ってきてもらって帰ったことがあるくらいひどかったですね。
 あの頃は家にお風呂があっても、燃料がないので家でなかなかお風呂に入れなくて。お風呂屋さんにも毎日行けないような状態でした。そういうふうにひどくなったのも、みんな戦争のせいなんですよね。
 青山の日本電気に勤めていましたが、朝出かける時はいつも、「これが最期だと思え」と言われました。
 朝は、お粥。一合のお米を七、八合にして食べるんですから、水ばっかりのお粥です。そこにかぼちゃの茎を入れるの。実はないので、茎を入れる。茎と葉っぱ。葉っぱは表と裏にとげがあってちくちくする。じゃりじゃりしてるんですよ。そんなかぼちゃの葉っぱを食べてました。
 
空襲に死を覚悟
 昭和十九年になると、空襲がひどくなりました。毎日、毎日、空襲です。寝ることもできません。
 夜中にサイレンが鳴る。「それー」ってリュックサックを背負って逃げる仕度をする。それが一晩に三回もある。みんなくたくたになりますね。大人も子どもも、無差別です。焼夷弾が落ちてきたら、火を消さなきゃならない。一、二軒に起こったのは消せますが何軒もあったら……。
 昭和十九年三月十日の空襲は本当にひどくて、上野から浅草、深川、墨田区など、東京の東半分が丸焼けになったんですね。東京空襲です。焼けた日は、私はまだ腹膜炎が治らなくて、寝込んでいました。私の家は京橋なので、深川は対岸です。ものすごく燃え上がって、こっちも焼けるかと思ったくらいです。でも、銀座の方にはこなかった。風がきっとむこう向いてたんでしょうか。
 広島と長崎に落とされた原爆で亡くなった人たちの追悼はあるけれども、どうして東京の事も同じようにやっていただけないのか、と私は江戸っ子としていつも思ってる。三月十日の一晩に、十万人も焼き殺されたんですよ。その十万人は本当にかわいそうです。木造の家が多かったから、火に攻められて、逃げ場がないんです。下町へ向かって銀座方面にはビルが多いので、上野方面には焼夷弾を落としたんです。
 焼夷弾というのは中に油が入ってる。灯油をかけて火をつけたようなものです。それが落ちると同時に油に火がついて燃え上がる。もう消しようがないんですね。いくら逃げても逃げ切れない。
 築地から京橋、日本橋。浅草の人たちは、隅田川に飛び込む。飛び込みたくなくて、橋の上に人が積み重なって、橋ごと落っこっちゃった人もいます。惨状です。私はあのことを思うと、涙が出て仕方がないんです。
 うちは幸い焼けなかったけど、父は一週間くらい借り出されて、死体の始末に行ってました。といっても、始末なんてつかないですよ。十何万人も死んでるんですから。隅田川に飛び込んだり、その周りでいっぱい死んでる。それを父たちは川から引き上げて、埋めるのです。
 この空襲の時、私は生き残ることはできたものの、耳が聞こえなくなったり、顔が麻痺しちゃったんですね。今でもしびれてる。神経が死んじゃったから。
 昭和二十年は、もう毎晩、毎晩四回ぐらい空襲がある。もう寝る暇ないですよ。みんな神経衰弱になる。寝不足で、昼間は、ぼんやりしてますよ。
 みんなが神経衰弱になりながらも仕事はやらなきゃならない。軍需工場での仕事です。
 五月二十五日はものすごい空襲で、赤坂から青山、渋谷は全滅しました。青山電話局が全焼しちゃった。私はいとこのいる日本電気に勤めてたもんですから、真昼間でも空襲があると「逃げろ」って言われて、職場から芝公園まで逃げたんです。
 戦争の末期になると、毎晩、死ぬ覚悟をしてました。爆弾が落ちる時は、耳元で、「カカカカカ、キキキキキーッ」という音がする。「ピュー」なんてもんじゃない。雷が落ちるような音がするんです。「ガラガラガラ」ってね。防空壕に入ってても、「次は自分の番」だと思ってました。みんなそうだったんですよ。
 
終戦後の苦労
 昭和二十年八月十五日に終戦の詔勅だって言うでしょ。「明日、全員、総務課に集まれ」と言われて、みんな集まったんです。
「ピィピィ、ゴロゴロ」
 あの頃は電線の事情も悪い。爆撃で、切れて垂れ下がっていたりしましたから、ラジオの雑音がひどくて聞こえないんです。天皇陛下の放送だっていうから緊張して聴いているけれど。
「ビィビィビィビィ」聞こえないんですよ。
「何をおっしゃってるんだろう」
 わからなかったので偉い方に聞きました。そうしたら、
「もう一度やるから頑張れって」、「しっかりやんなさい」だって。
「明日からもちゃんと来るんだよ」と言われて家に帰ると、父はちゃんと聞いてたみたいで、「戦争は終わったよ」。
 私、なんだか気が抜けてね。腰が抜けたっていうか、からだの力が抜けちゃいましたね。それまでは、「今日死ぬか」「明日死ぬか」、思いつめていたんです。それが急にゆるんでしまいました。だけども、うれしいっていう感じじゃなかったですね。呆然とした感じでした。
 玉音放送のあと、「灯火管制しなくていいよ」
 と言われました。それまでは夜になると、電気を消すか、明かりがもれないようにする。本を読む時には、管制型の電灯を使ってました。周りは黒く塗ってある。電球の一番下のところだけ明かりが出る。だから、光が一点しか届かないんです。それで本を読んでたんです。灯火管制用の電球を使ってた。でもね、「ウーッ」って空襲警報なったら、それも切らないといけないんですよ。
 私が十七歳の時、戦争は終わりました。
 でも、苦労はそれからも続きました。それまでは命の危険だった。その命の危険はなくなったけれど、こんどは食べるのに苦労した。焼け野原で何にもないです。おまけに江戸っ子だって威張ってたのはいいけど、田舎に親戚がない。おじさんもおばさんも、銀座にいましたからね。食料が一番困ったんです。
 うちの田舎に「朝倉」っていう、ところてん屋さんがありました。朝からものすごい量の海草を大きなお窯で「ぐらぐらぐらぐら」煮て固めたのを、夏に食べるところてんです。銀座には若松だとか曙だとか月ヶ瀬だとかいう、お汁粉やあんみつの名店がいっぱいあったんですが。戦争中も戦争が終わっても売るものがないから、ところてんを売ってたんです。ところてんだけは、なんとかあったの。それを朝倉さんから時々分けてもらって、食べてたんです。あんなものはお腹に溜まりません。すぐ水になってしまう。でも、そういうものしかなかったの。食べ物には大変な苦労をしましたね。

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室