語られたストーリー
2011.02.18 男性養護教諭のパイオニアとして生きる 語り手 (男性 62歳 2010年取材)

 【あらまし】

 看護師として精神科で働いた語り手は、大学別科で養護教諭免許を取得する。ある県の小学校で一年間勤務し、学校現場で健康を守る養護教諭の重要性を認識。その後、看護系高校で看護教員として十八年間の勤務を経て、定時制高校の養護教諭として復帰。とくに男子生徒から歓迎され、女子生徒へも手洗い触診や多様な健康相談で対応。不登校気味の生徒を一〇〇%卒業させた。
 一方で、男性養護教諭の認知度をアップさせるため講演活動も行う。男性を強調するのではなく、養護教諭の能力があれば性別は変わらないことを主張。山村留学の小中学校勤務の後、現在では退職し、後輩たちにエールを送る立場になり、「男性養護教諭友の会」の基礎作りを行った。
 
●小見出し
 看護学校の初めての男子学生
 大学別科で養護教諭を目指す
 県で二人目の男性養護教諭となる
 看護教員に転ずる
 定時制高校で念願の養護教諭に復帰
 山村留学の小中学校に単身赴任
 退職後は俳句やゴルフを楽しむ
 まだまだ少ない男性の養護教諭
 ようやくスタートした男性養護教諭友の会
 
看護学校の初めての男子学生
 私は、昭和二十三年生まれです。両親が亡くなったので、兄が育ててくれました。高校卒業後、大学に合格できずに四浪したんです。そうすると、現役合格した友人が大学から戻ってくるのに、自分は大学に合格できていない。それで、地元にいたくなくて、兄に許しをもらって都会へ行きました。すると、駅前で医学部の先輩に出会い、その先輩から、まだ受けられる学校を紹介してもらって受験しました。
 合格し入学式に出ると、作業療法士あたりの学校かと思っていたら、医師会の看護学校でした。校長先生の挨拶で「初めての男子学生」と紹介され、周りを見ると全員女性なのでびっくりしました。それで、看護師を目指しました。
 昭和四十八年に卒業して、精神科の看護師として六年間、昭和五十四年まで勤めました。当時、男子は内科など他の部署では採用されなかったんですね。精神科には、中学三年生の女子の患者も来たりしていました。看護師として勤務しているうちに、病気になってから対応するのではなく、「病院に行かせないようにする」という思いを持つようになりました。
 看護師の私たちから見たら何ともない生徒たち。入院するような生徒ではなく、普通の生徒と何も変わらないように見えました。病院にそういう生徒が来てから援助するのではなく、精神科に入院しなくてもいいようにできないかと考え、それで、保健室の教員を目指したんです。
 私が辞める前に、勤務病院には男性の看護師は六名でした。医師会の病院には男性がいたんですが、それは、院長が理解ある人だったからでしょう。
 
大学別科で養護教諭を目指す
 養護教諭を目指したとき、看護師の資格を持っていれば、一年間の別科で養護教諭免許が取得できると知って、ある大学に入学願書を出しました。
 面接試験のとき、面接官三人が変なことを言うんです。「男性養護教諭の採用予定はありません」。それから「養護実習、教育実習を受けてくれる学校も全くありません」、「第一、男性が受験するなんて思ってもいませんでした」。
 案の定、その年は、不合格でした。でも、最後に、面接官の一人が、「来年もぜひ受験してください」って言ってくれたんです。それで、次の年も受験しました。そうしたら、「教員の採用予定はありませんが、養護実習を受けてくれるという先生が一人現れました。大学付属中学校の女の先生です。それでもいいですか」って。もちろん「いいいです」と答えました。そして、合格。入学を許されました。
 入学後、私と指導教官と二人で教育委員会に行って、男性の養護教諭についての話をしました。でも、理解してもらえません。そして、希望はないことを宣告されました。大きな理由は三つ。
 一つは、「PTAが許してくれないだろう」。二つ目は、「男性は初潮教育できるんですか」というもの。そして三つ目、「女子児童にも触れることがあるでしょう。あなたは、触れますか」。そんなの常識で考えたら分かりますよね。脚とか手は触って差し支えないと思います。私は看護師をしていたので、患者さんのお腹くらいは触っていました。もちろん、女性の胸は絶対に触りません。そもそも、女性の導尿(尿が出にくい場合、カテーテルを使って排尿すること)なんて男性の看護師はやるわけない。そういうことはわきまえていますよね。
 ところが、そんなことも先の発言をした人たちは理解できていない。「触れることできますか」、「初潮教育できますか」という、ふざけたもの。そんな不条理な状況でした。
 一年の別科は二十四名が女子で、男子は私だけでした。指導教官の先生は、すごく応援してくれました。ここでは男性の採用はないかもしれないけれど、学内を活性化させたいという思いがあったようで、「男性養護教諭の採用がないけど責任持てるか」って言われたそうですが、「女子ばかりだと活気がない、男も入れたい」と言って、教授会でがんばってくれたそうです。
 一年で修了した後、もう一年、助手として残りました。そのときは、トラックの運転手や福祉施設の保健室で看護師としてアルバイトをして暮らしていました。教育委員会に問い合わせたところ、男性の養護教諭採用はその時も行っていないということでした。そうしたら、ある県で男性の採用予定があるらしいという情報を得たんです。それで、その県の採用試験を受験すると、合格して、小学校に採用されました。
 
県で二人目の男性養護教諭となる
 昭和五十七年、小学校に赴任しました。どんなところか心配しましたが、「よく来てくれた」と言ってくださった。山間部の集落のムラで、児童は二○六名ほどでした。
 男性養護教諭である私を受け入れてくれた理由は、私より一年前に男性養護教諭が一人採用になっていたんです。その人が一年間たいへん立派な仕事をしてくださっていたので、男性を入れてもいいんではないかということだったのでしょう。私はその県では男性養護教諭の第二号として採用されたのです。
 保健室には、六年生の女の子も来てくれました。五年生の担任の女性の先生が、性教育の時間に私を教室に入れてくれて、女子に対する性教育を見学させてくれたんです。それがよかったかなと思います。当時は、男・女に分かれて性教育を行っていて、それを私に見学させてくれたのです
 そういうことが、後で、ああこういう話なんだな、こうすればいいんだなと役に立ちました。その先生は、とても熱心で理解がありました。授業に加わっていたこともあって、女の子たちも安心してくれたのでしょう。保健室の利用率は、前年度の先生より高くなりました。
 他の先生に聞いたら、定年で辞めた前任の養護教諭は、保健室には「めったなこと以外で来たらダメ」という指導だったそうです。
 理解のある先生の存在は心強かったし、PTAの人たちが受け入れてくれたのもよかったです。PTA会長に「君、トマトっていつ食べたらいいか」って聞かれて「夏が最高です」と答えたら、「馬鹿野郎、知らないな」って言われたのを思い出しました。
 それは、こういうことだったんです。何でも旬がおいしい。でも、その旬というのは十日間のこと。上旬、中旬、下旬って言うでしょ。その十日で全然違う。アスパラガスなんかもこの十日間くらいで、それを過ぎたら堅くなってしまう。今はビニールハウスがあるから、いつでも食べられるけど、ハウス物って、自然のものと味が全然違うでしょ。
 ある日、一年先輩の先生に会いました。いろいろ話しましたが、「全国に男性の養護教諭は何人いるか調べてみよう」という話になって、当時の文部省に電話したんです。
 そしたらね、いい返事はなかった。「どこかに居られるでしょう。だけどプライバシーがあって、どこどこの誰々さんとはお教えできません」という回答。「三か月、四か月の臨時採用の男性はいるようですけれども、はっきり掌握はしておりません」という回答でした。
 それで、九州や四国なんかを含めて、ふたりで分担して電話をかけ、全国各地の教育委員会に尋ね聞いたんです。でも、どこもいないんですよね。だけど、少なくとも当時、昭和五十七年でしたけど、二人、間違いなく男性の養護教諭がいたんです。
 私は小学校で、一人ひとりの簡単なカルテを作って観察しました。すると、自閉傾向にある子は、健康群のなかにいると「いじめられっ子」だということが分かりました。「いじめられっ子」が、いじめられているうちに、我慢しきれなくなって、教室のなかでどんどん奇声を発したり、居たたまれなくなって廊下に出たりとか。そして、自閉傾向を強めて、他人とのコミュニケーションがとれなくなり、そのうち、被害妄想的なことが加味されて、どんどん悪くなっていき、入院して治療しようかということになっていく。そういう子たちが精神科に入院してくるんです。
こういうことが分かると、私は臨床の現場に戻ろうかと思いました。しかし、健康群のなかにいて、不健康な子を出さない仕事をしたいと思うようになって、ずっと養護教諭を続けていこうという気持ちになりました。
 
看護教員に転ずる
 ところが、私に転勤命令、辞令が出ました。当時、県を越えた超えた人事交流があって、衛生看護科の高校への転勤でした。養護教諭の採用がないから、せっかくこっちに来て、骨を埋めるつもりでしたから、最初は断っていました。
 しかし、校長は「いま断ったら、戻れないぞ」という。PTA会長にも「一年しかいなかったけど、いいぞ、戻れ」と言われ、私は決意しました。ここの人たちとは、今でも交流を続けています。遊びに来てくれたこともあります。
昭和五十八年、私は養護教諭として採用され、転勤になったと思っていたら、そこの学校に行ったら、養護教諭の先生がいるんですよね。あら、どうしたんだろうと思っていると、校長は、「あなたは看護教員として異動してもらったんだ」と言われました。たまたま看護師の免許を持っていたものですから、こんなことに。なんだか、「だまされた」ようなもんです。
 それで私は、養護教諭になりたかったのに、どん底にまで落とされるわけです。しかし、今さら教育委員会と交渉してもしかたない。養護教諭になりたかったのに、看護教員になりました。担任は十四年間していました。で、あるとき、ウツ傾向の生徒がいて、その生徒が体調を崩して保健室に行ったんです。しかし、しばらくすると、泣いて帰ってきました。保健室に入ったけど何もしゃべれなかったという。もじもじしていると、養護教諭に「何も話さないなら帰れ」と怒られて、泣いてきたんです。
 そのとき、私は、この生徒を何とか支援していかなければならないと思ったんです。でも、クラスの中でというのはなかなか難しい。集団生活のなかで一人ひとりの人格を作っていくという前提があるので、とくに、病気などの人格にかかわるようなことをクラス内で話すなどということはできないんです。その子に気づかいながら、一般的な話しか言えない。それで、健康に関する支援は、個人指導でないとできないと気づいたんです。
こうして、私の中の養護教諭になりたいという気持ちは再燃するわけです。それからまた、教育委員会と校長に交渉を重ね、養護教諭への希望を出し続けました。
 ここは看護系の学校だったので、男子はほんのわずか。ほとんど女子校みたいなものです。それで「男会」というのがありました。「女には負けないぞ」と、男の先生や学生が一週間に一回集まってたんです。「男会」は、今も、年に一回、一泊で温泉に出かけています。四○人くらい集まります。
 会を作ってから三○年くらいになりますが、義理的になっているようなところもあったりして。「無理しなくてもいいよ」って言っているのですが、会長が、「この伝統は崩しちゃいけない」と力を入れています。
 私が結婚したのは三十八歳だったから、独身が長かった。当時、若い先生方は、私の家がたまり場になってましたね。妻とは、この高校で知り合いました。私は当時、寮の舎監。寮の会議を五人の若手教員でやっていたんです。それがきっかけでしたね。私自身結婚の意思はあまりなかったのですが、「先生でもいいっていう人がいましたよ」と言われて、それが彼女だったのです。二週間、つきあって決めました。
 
定時制高校で念願の養護教諭に復帰
 看護教員として十八年間我慢してきたのですが、養護教諭になるチャンスが訪れました。教育委員会の人事ではなく、校長同士の校長人事でした。
 勤務校の校長とある定時制高校の校長が同期生だったんです。何かしらの心の悩みがあって定時制に来ている生徒がいたんです。統合失調症と思われるような人もいた。うちの校長が、精神科に勤めていた養護教諭がいることを話して、校長先生同士の話し合いで、私は養護教諭となって行くことができたんです。
 いや、もう、うれしくて、うれしくて。たいした喜びでした。平成十四年、定時制高校に養護教諭として赴任しました。ところが、私が行く一か月前からその高校の職員室では大騒ぎ。会議を開いて、さて、どうやって受け入れるか。結果的には、一か月検討したけれども分からなくて、来てから考えようということになったそうです。
 赴任した日、私は、職員室に「みなさん、こんにちは」って元気に入っていきました。それを見て、職員室の皆さんは安心したようです。きっと、暗い男で、閉じこもり傾向で、そういう、ちょっと変わった奴じゃないかと思いこんでいたらしい。だけど、「こんにちは」っていうので、一発で払拭されました。
 私は、私が来たことによって、保健室の利用が減ったら困ると思っていました。それで、いろいろ保健室に興味や関心を引き入れる作戦を練るわけです。結果的には、全部成功しましたね。
 一つ目は、廊下で会うたびに、「こんにちは。今度、二人で保健室に遊びに来てください」と生徒たちに声をかけまくりました。向こうは何だろうと思ったと思います。でも、男性養護教諭という興味もあったと思いますが、休み時間に来てくれました。すぐに健康のことを話さず、手品をしたり、身体クイズや恋愛話などもしたりしました。質問されたら真剣に答えましたが、女子に対する接し方は、前任校で分かっているので、うまくいったかなと思います。まず、保健室の雰囲気作りをしました。
 二つ目は、女子に対する処置や触診です。捻挫や打撲、皮膚疾患などで触れることが必要なときは、手を石鹸で念入りに洗って、声をかけて見せました。胸やお腹の触診が必要なときは、もう一人来ているので、その子に指示を出して触ってもらっていました。
 保健室から出しているA4サイズの「保健便り」も、文章を短く、電車の中吊りのように、見出しで勝負しようと、とにかく見てもらおうと工夫しました。「先生、もっと知りたい」と言われるようになったので、「保健便り」の裏に、説明を書くようにしました。
 一人、覚えている生徒がいます。保健室登校していた生徒です。「花好きか」と声をかけると、「嫌い。でも祖母ちゃんが作っている」という。「じゃあ、毎日、祖母ちゃんの花を教室に飾りに来い」って言いました。それから一か月は何もなかったのですが、花が咲く時期になると、一輪挿しですが、花を教室に生けて帰るようになった。それが、二週間くらい続いて、そのうち、担任の先生や生徒から「すごいね」って言われるようになった。そうしたら教室に来られるようになったのです。
 その子の祖母ちゃんが作っている花は三種類。最初は、三日に一度は同じ花だったけど、考えたその子は、ある日、違う種類の花を二本生けた。私はそのままでいいと思っていたけど、その子は、やがて、そのうち一本だけ造花にした。その造花は、一月ごとに色を変えていった。自分で考えて行動するならそれでいいなと。結果オーライだったんですが。そうやってだんだん学校に来ることができて、結局、無事に卒業。うれしかったですね。
 その生徒が保健室に来たときに、看護師さんになりたいって言っていたので、「勉強したら大丈夫だよ」って励ました。そうしたら、医師会の夜学に合格。私が勤めていた四年間に、二人が看護師に就職。なりたくても簡単にはなれないのにね。保健室には、病理的なことや薬のことに関する本も置いておきましたよ。
 保健室登校していた生徒に対しても、一生懸命対応した。「どうして学校へ行けなかったんだ」と聞くと、先生の意図が伝わらず、登校する意欲をなくしていたような生徒がいることに気づいた。定時制ですから大人びたなれなれしい生徒もいる。女子生徒もいる。そのうち、一日三○人、四○人も保健室にやって来た。全校生徒で七二人しかいないのに。他にも来室理由はあるわけですけど。
 それで、いろいろと問題のある定時制の生徒全員を卒業させたんですよ。そうすると、周りから、「先生どうしたの?」と聞かれました。いろいろな方法を取っていたんですけど、とにかく、生徒たちを呼び込んで、保健室に来させるようにしました。たとえ、さぼりだと分かる来室でも、本人が希望すれば一、二回は休養させました。でも、間違った方向へ行かないような示唆は必ずしてきました。
 その後、保健室に三○分来ていたのを、二九分、二八分と徐々に短くして、最後には、教室へ行くようにしたんです。生徒の辛いことを受容し、共感しながらも、自分がやっていることを軽く訂正してあげるという作業をしたのです。
 平成十五年三月、新聞に「男性養護教諭」としてちょっとだけ取り上げられました。それから、年間三○回位の講演依頼がありました。高校は定時制で出勤は午後二時半でしたので、午前中の講演はできるかぎり受けるようにしました。自分のやっていることを、講演で訴えることができるからです。男がいいとかは一切言わずに、「男もこうしてやっています」と伝える。「女性よりいいですよ」って言いたかったんですけど、それは一言も言わずに。
 養護教諭関連の学会があったときは、関西から男性の養護教諭を一人呼んだこともあります。色々な大会だとか、ジェンダー関連の団体だとか、私はいろいろな場所で、養護教諭は男性も女性もメリット・デメリットがあることを言った上で、最終的には、皆さん、「男子はダメだ」と言っていますけど、「女性でも実はダメなんです」と言ってきました。
 「初潮教育ができますか」、「性の指導ができますか」、「女子の悩み聞いてあげられますか」と問われますが、私が定時制高校にいるときは、男子は喜びました。「妊娠させたかもしれない」なんていう相談は、女性の養護教諭にはできなかったからです。性感染症についても男の先生だから聞ける。それで、男子も保健室にどんどん来てくれるようになった。
 男性・女性のメリット・デメリットは、「五〇・五〇(フィフティ・フィフティ)」です。皆さんは一番最後に、「産科のお医者さんも男性がいるし、男性の看護師だっている」と言います。でも、みんなそこで終わりです。後は、何も話を聞いてくれない、男性養護教諭を増やす試みなど進めてもくれないんです。
 そこで、作戦を転換することにしました。それまで、講演では理解してもらおうとやってきたんですが、後で考えると、私は、人びとを説得しようとしてやっていたんじゃないか。だけど、それではダメ。自分の仕事をみんなに見てもらって、納得してもらうより、これは方法がない。そういうふうに考えて、方針を転換したんです。
 
山村留学の小中学校に単身赴任
 その後、平成十八年四月、町立小中学校に養護教諭として単身赴任しました。「山村留学」制度を推進している学校です。小学校一年から中学校三年までの児童生徒と親が、全国から来ていました。
 山の上にある学校で、この地域には世帯は四〇もないくらいでした。公務員宿舎があったんですが、そこに、教師や生徒たちが二〇人弱、くらいでした。それ以外は二○人位地元の方々が住んでいました。その地区は、最も近い外科が三五キロ、内科が二五キロと遠方です。だから、学校の保健室は、地方の医療機関としても認知されている。怪我などの薬品が保健室にいっぱいあるのは、そのためだと思って対応していましたね。
 校務分掌としては、生徒指導部や研修部に所属していて、月一回の講習では、先生たちに救急法の指導をしていました。養護教諭は、医療的行為はできないけど、このような地域ではその知識が役に立ちます。
 私の赴任前は、大学の非常勤での授業の教え子が一年やっていて、私が退職した後は、その女性が後任となったんです。当時は、月に一回くらいしか自宅には戻れなかったけど、やりがいがあって楽しかった。山奥なので、非常勤講師や講演依頼など全て断りました。
 
退職後は俳句やゴルフを楽しむ
 三年間、小中学校に勤めて、平成二十一年三月に定年を迎えて退職しました。残ってくれと言われ、再任の話もあったんですけど、もう十分やったと思っているので、そういう話は全部断りました。今は、俳句やゴルフなどが趣味ですね。俳句は教員の退職者の会のサークルで、元校長先生たちがいるなかで、初心者としてやっています。ゴルフは、たまにですが。
 動物園は、年間パスポートを購入し、月に二回は行っています。動物にも統合失調症などがいるのかな、などと思いながら、鹿などの群れを見るのが楽しみです。講演なども、退職したことを聞いた知人などから頼まれるんですが、もうそれは、後輩たちにお願いすることにして、全部断っています。
 男女共同参画審議会の委員はやっています。でも、その会では、行政の管理職を三○%女性になどの数値目標を主張する人がいるなかで、私が、「男性養護教諭が何%いるか知っていますか」などと言っても、なかなか賛同してくれるような状態になっていないので、がっかりすることも多いです。
 
まだまだ少ない男性の養護教諭
 現場で思うことはバランスが必要だということ。男子生徒への性教育は女性の養護教諭にはできていないかもしれません。そもそも相談に行かないでしょ。それと、母子家庭の場合もあるので、父性を求めている生徒たちもいると思いました。
 公立高校の養護教諭採用試験は三○倍にもなります。男子学生も毎年二、三人は受験しているけど、受かった例はないんですよ。「成績がよければ」と点数の問題だと言われますけど、大学の担当の先生からすると、「あんないい学生がなぜ不合格だったのか」とも言っている。「あなたがしっかりPRしなかったから」と言われることもあるんです。いまだに、採用に対して理解があるとは思えない。
 よく、複数配置で男性と女性をという人もいるけれど、生徒児童数が八○一人以上で複数配置。子どもたちの対応に手間のかかる学校にも複数配置がある。だけど、そもそも、統廃合で学校自体が毎年のように減っていて、そうすると教員の数だって増えないんですよね。
 定時制高校の養護教諭として勤務してからの七年間は、男性の養護教諭について思うことは、周りの教員について理解されることが大事だということです。それは、「男が」というのではなく、養護教諭として、仕事を円滑に進めることが大事。もちろん、やりたいことはいろいろあったけど、それはひとまず我慢して、まず、普通に、やることをやるというので過ごしてきました。
 
ようやくスタートした男性養護教諭友の会
 高校勤務のときに、もう一度、男性の養護教諭が日本にどれくらいいるのか調べました。北海道からずっと東北までいない。で、茨城に「一人います」と情報を得ましたが、「プライバシーがあるので教えられません」とこうなんですね。私は、男性の養護教諭の連絡網を作って、いろんな連携を強めたい。社会に広めていく作業をしたい。教育委員会に電話してもそういうことを教えてくれませんから。
 それで、自分の同級生とか、知り合いに「男性いないか」って電話で聞きました。電話代がそのとき三か月で六万八千円もかかりました。ものすごかったです。当時十二人の男性養護教諭を電話で把握し、男性の養護教諭にハガキを出しました。コレコレこうでと名簿を作りたいことを説明した。名簿に記して、名前を公表させていただいていいかどうかを尋ねた。
 すると十二人のうち八人はOKだった。四人は「校長が名前出してもらったら困る」とか、他の理由は分かりませんがNG。八人はOKだったので、すぐに名簿を作り、これから連携していこうということになった。やがて、大学院生、大学生で養護教諭を志す人たちなんかも加わってもらって。名簿を作ることに成功した。
 こうやって、いろいろ連携していたのですが、なかなか集まる機会を作れませんでした。でも、その名簿は、関係機関に何かあればすぐに送っていました。大学からの問い合わせがありました。協力したり、連携をとってきました。そんなこともあって、男性養護教諭に関する大学生の卒論や修論が送られてきますね。
 「男性養護教諭友の会」がこの八月にできました。三〇年も我慢していたことが、ここで叶った訳です。じわっとくるものがあります。本当によかったです。

 

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室