語られたストーリー
2011.02.18 そろそろ、お嫁にいこうかな 語り手 (女性 40歳 2007年取材)

【あらまし】
 聞き手の一人である山田佳代(20歳)は、大学一年生の頃からボランティア活動をしている。そこで、森宗プリン(仮名、40歳)に出会う。山田には、永年、ボランティア先のスタッフをし、いろいろなことを経験している森宗は、とても多くのストーリーを持ち、きっと充実した毎日を送っているに違いないと思えた。さらに、働く女性の先輩として、これからの私たちにとって貴重で、素敵な話が聞けそうだと思い、インタビューに出かけた。
 
●小見出し
 先生たちとの出会い
 世渡り上手な中学生
 みんなとは違うもの
 自分の行きたい道へ
 導かれるままに
 断れない性格
 ハード・スケジュール
 影番長
 保護者とのズレ
 十人十色
 
―子供の頃から今までを順を追って話して下さい。
 小さい時は田舎に住んでいて、おうちは商売で。育ててくれたのは、母がちょっと番をしながら、近所のおばあちゃんとかが、育ててくれたんじゃないかと思う。初めて動物園に行ったのも、近所のおばちゃんに連れて行ってもらったし。苺のハウスを作ってるから、「苺できたぞ~食べに来い」って言われて食べに行ったりとか。ほんとに、地域の人に育てられていたのかもしれないね。
 でも、5歳の時に大水害にあって、家が流れお店屋さんも廃業。そこから、今の実家に移動をして、1年生の区切りの時から新しいお家。
 
先生たちとの出会い
 自分の中で転機は3年生。私、絵を描くのが苦手だったのね。幼稚園の時の絵を見ても、ひどい絵しかないのよ。その時の写生大会で、鐘つき堂を描いたら、空が余っちゃったのね。そこで空が寂しいから、柿の木をぴろ~んって先生が、ほんとはないのに柿の木を足してくれたの。「そういうものなの! 絵って」とか思って。その絵がたまたまね、入選しちゃったの。世の中ってこう、あんまり、まじめじゃなくてもいいのかなとか。そんなことをたぶん考えたんじゃないかなと、今では思う。そこですごくおおらかになったのは3年生じゃないかなって。
 5年生の時に、「定年退職最後の年」っていう先生に当たって。事件が起きたら、「誰がやったの?」みたいな。くだらないことなんだよ。給食お片付けをしてないのが一個残って、「これは誰のですか」って。その犯人って言われた子も、私と一緒に、掃除の始まるぎりぎりまで食べて、二人で片付けたのよ。その子は片付けたの。だから私が、「その子じゃない」って言ったら、「じゃあ、あなたが犯人?」っていう話になって。「片付けた」って言ったら、「じゃあそこにあるはずないでしょ! 二人が犯人でしょう」ってなって。それが一番初めての大ショック。なんで犯人なんだろうとか思った。
 6年生の担任は国語の先生で、隣の先生は体育の先生だった。A組もB組もかき混ぜて授業をやっていて、朝の十分テストをやるんだけど、「誰々さん何点、誰々さん何点」って。まあ一問二十五点だけどね。グラフにされちゃうの。誰がどれだけできるかっていうのをはっきりされて。私のできる範囲をやったら、クラスのトップ3に入れちゃったの。それがすごく自信になって。
 体育の時も、泳ぎは習ってない、みんな我流で泳いで何メートルって世界なんだけど。6年生の時にはきちんとクロールで泳ぎなさいとか指定をされて、ほんのちょっと練習したら、テストを一番にパスしたりとかね。ほんとにこう、何かやりなさいって言われて、「できた」って自分で達成感っていうか、自分の才能を引き出すチャンスをくれたのは、6年生の時の先生かなって思う。
 
世渡り上手な中学生
 中学校は、小学校が四つくらい、町と郊外から来て一緒になるから、今で言う、軽度発達の子や、社会的に弱者的な子も、いろんな子がいて、いじめがいっぱいあった。私の出席番号の後ろの子が、たぶん、あんまりおうちが裕福ではなくて、なおかつちょっと違う子だと思うんだけど。服が汚れてたり、頭を何日も洗ってない、みたいな。周りから、「くさーい」とか、「気持ち悪ーい」とか、そんな風に扱われちゃうでしょう。
 でもそれは、理由があるんだろうなとか思うから、それは言っちゃいかんよなとか思って、その子の悪口を言わなかったのよ。そしたら、「あの臭いやつの仲間だろう」みたいになっちゃって。でも他のクラスには、友達は別にいるからね。逃げる道はいっぱいあった。3年生の時には、不良の人たちとも話はするし、そうじゃないいい人とも話はするし、っていうポジションに自分がいて(うまい~)。
 そうそうそう。近所にいた女の子がね、たぶんお父さんとお母さんが離婚をされて、不安定だから、その寂しさを求めるためにシンナー吸うとか、鑑別所送りとか、悪いことをしてたのね。その当時、その子が、「鑑別所はね~まずい飯なんだわ~」とか、自分から話すことは、「ふんふん」っておもしろくて聞いてた。
 その子が学校に来れなくなっちゃうといけないから、「鑑別所から出てきたよ」とか先生に聞いたら、朝迎えに行って、「ちょっと学校行くよ」みたいな。学校に行ったら違うクラスだけど、とりあえず学校に連れて行ったり。
 
みんなとは違うもの
 一番最初は小学校かな、小学校に知的な遅れのある子がいて。やっぱりその子はいじめられてて。でもその子がさ、知的な障害があるって分かんなかったから、その子んちに遊びに行くと、えらいそこのおばちゃんが喜ぶから、遊びに行ってやろうかみたいな(大人~)。でも別に、そのこと意識していなかったし、会話だって成立しなかった。なんで遊びに行ってたかはよく分かんない。それが初めてだけど、別にそれは自分の中では大したことではなくて。
 中学で陸上部に入っていて、3年生の時、国際障害者年っていうのがあって。陸上部に障害者の陸上大会のサポートをやって下さいっていうのがあって。それで、たとえば「盲人の百メートル出る人集めて下さい」って言われたら、テントが地区ごとに並んでるところを、「百メートル盲人レースです! 盲人レースです! はい、並んで下さーい」とかっていう係を預かっている時に、ぱらぱらぱらって雨が降ってきて。「みんな中に入れなさい」って言われて。「みんな入って下さい。テントで待機です」って言って回るじゃない。その時に、「何言ってるんだ。お前の方が待機しろよ。あなたが濡れるから中に入りなさい」とかって言われて。
 私たちが中学生なんだけど、障害者の人達に、「タオル、タオル。これで拭け」とか、言葉のない人には、自分の帽子で、これかぶって濡れないように、とかして。そういう心のふれあいを通して、「この人たち、違うものを持ってるな」っていうのが最初で。それがあってから、知的な遅れのある障害者施設に勤めたいなって思ったの。
 
自分の行きたい道へ
 私が高校3年生になって、3年間クラスが変わらなくて、担任の先生も私たちが初めての教え子だったから、「進路指導、失敗したくない」みたいな思いがあるから、「私立の理系に行く」って言ったら、「女子は文系! そんなことして仕事はない!」って言われて。私がやりたかったのは、「理学療法士」。作業療法やったりする人か、保母さんだったから、「じゃあ保母さんの方にしなさい」って言われたから、選べなくて。
―え、その先生が選択しちゃうの。
 そうそう、だって失敗したくないもん。「絶対全員を大学に入れる」っていうのが、先生に課された課題だから。でも、憧れていた女の先輩が、日本福祉大学に行って、「先輩行ったから、日福(にっぷく)に行く」って。ちょっと受けてみたら受かっちゃった。それで行くことに。すごいでしょ!?(すごいな~)
 単純に福祉か保育ってだけで、なんにも考えてないから。大学は保育科に入って、編入試験を受けて、社会福祉学部に入った。親は、「女がそんなに勉強したって仕方がない。そんなんだったら早く手に職をつけて、安定した生活を」っていう意向で。大反対されて、願書を出す一週間前までOKって言わなくて、もう諦めて勉強もしてなかった。一週間前になったら、「もう勝手にしなさい」って言われて。急いで願書を出して、試験まで一週間、すっごい勉強した。人生の中で一番勉強した。
 たぶん受験生は三〇〇人くらいいるのかな、一〇何人しか受からなくて、本当に狭き門なんだよ。でもね、受かったらラッキーじゃない。図書館で、朝九時二十分から、夜の九時二十分。その間に一時間休憩を挟んで、その間以外はずっと勉強してるの。また家に帰って勉強。本当に七日間頑張った。その時にもし受からなかったら、就職活動もしてないでしょ。ポストの前でもし受かってなかったら就職はどうするんだろう、とか。すんごい泣いてた。「合格」っていうのを見て、学校に行って、「やった~」っていう時間を迎えたの。
 
導かれるままに
―大学ではどんな生活。
 どんな生活、いい質問だね(笑い)。昼間はとりあえず学校に行くでしょ。Q(社会教育の団体)以外は休まずにちゃんと行ってたから。
―Qはいつ始めたんですか。
 Qはね、1年生の五月。サークルに入ろうと思った時、運動部と、障害児の勉強をしようってゆうのがベースにあって、色々回ってる時、最後にもらった紙がQのリーダー募集の紙で、「子供と一緒に、障害児と一緒に運動しませんか?」って書いてあって、見に行ったら、「はい、じゃあまた来週」って言われて。正直な私は、「行かないと」って思って行っちゃったのが始まりかな。3年、4年は障害児のクラスをやって、その前にある健常児の体操教室もやってたから、お昼終わって、3限目の出席カードを書いたら、脱出。
 それでもQが楽しかったんだよね、きっと。短大の専門は、保育の専門で、社会福祉の専門と単位の置き換えできなくて、4年間分の単位を2年間で取らないといけないのね。でも、1年間での単位制限があって、普通だったら取れないでしょ? でも夜間の授業を取れば、なんとか頑張れるの。だから、夜間の授業も月曜日から土曜日まで、1限から7限までを全部取ることになって。だから試験をそれだけ受けて、受かればいいみたいな。
―Qに行くの。
 そうそう。週に2回行かないといけないから、きつかったよ。だからね、遊びに行くのは、Qでスキーに行くとかそんなんだけで、Qにお友達はいたけど、学校にお友達いなかったかも。
 
断れない性格
 福祉の道を勉強し、「よし就職、何をやろうかな~」って思った時、施設実習に行って。「おばちゃんになっても、施設は勤めれるけど、保育園、幼稚園は若い時にしかできないから、若いうちに正常発達をみて、障害児をみたら、もっといいことができるかもしれないよ」って言われて。じゃあ、私たちがいい教育をして、それを認めてもらえる幼稚園に行こうと思って。
 でも、幼稚園を探し始めたら、自宅から何キロ以内とかそうゆう制限がいっぱいあって。「あ、無理だ」って思った。それから企業も受けた。でも、なぜQを選んだかってゆうところだけど、幼稚園の体操教室を手伝って、帰る時に、「お前決まったのか? Qの試験があるから来い」って言われて。でも、そのQのいいところも分かってるし、悪いところも分かってるし、「どうしよう」と思ったけど、断れない性格だったから、行かないといけないかなぁと思って、試験を受けに行ったんだよね。それで終わっちゃった、就職活動。
 
ハード・スケジュール
―Qに入ってからはどうだったの。
 Qに入ってからは、1年目はとにかくもう水泳。隔週週休二日制だったから、とりあえず5日間で二十四本入ってた。もうプールに入ったら一日中入ってた。朝、Qに来たら、ご飯食べずに夜、みたいな(えぇぇぇぇ)。
 1年経った時に、3歳児のクラスと障害児のクラスがやりたいって言って、「うん、そうだな。ぜひお願いしよう」とかって。面接で言われていたのに、開けたらプールしかないじゃんね。その次の年もね、同じように、「3歳児のクラスと障害児のクラス」って言って、「他にはないか」って言われて。「ん~あ~じゃあ、高齢者のクラス」って言ったら、高齢者のクラスが入ってたの。そこでは大分鍛えられたね。
 おばあちゃんたちは、こう赤ちゃん返りじゃないけど、大人からまた子供っぽくなるってゆうでしょ。だけど、知識とか経験はあるから、ただの言うことを聞かない子供とは違って、ひと癖ふた癖ってゆうか。
 今まで、おばあちゃん先生とおじいちゃん先生が、指導をしてたから、ビート版プッシュするとか、昔からやってる基本を、継続的にずっとやってて。でも、どうせやるならビート板をボールに変えて、楽しくやりたいと思ってやったのよ。そしたら、「こんなボールで、子供のお遊びじゃないんだよ。私たちは、ここにトレーニングに来てるんだよ」って怒られて、もう反発受けまくり。
 まずはこの人に私を認めてもらわないといけないと思って、おばあちゃんたち、みんなプール終わったらサウナ行って、シャワー浴びて帰るのが恒例になってるから、おばあちゃんたちと一緒にサウナ行って、おばあちゃんの話を聞く。とりあえず聞く。「どうやったら天国にいけるか」とか昔の話を何回も、何回も同じ話を始めて聞くかのように、「そうなんだ~」って聞いて。まずは認めてもらうっていうのが2年目3年目かなぁ。一番鍛えられたと思うわ。
 自分が競泳選手ってゆうわけじゃない、Qのリーダーになって水泳を始めた私が、大人のすっごい早い人とか、水泳部だった人とかの指導をするでしょ。理論では負けないってゆうかね、そこをどうやって自分の力でカバーするかってゆうのが、その頃の課題かな。
 野外活動部門は、どんどん仕事が増えていって、全国のQの中で委託事業を頑張っていて、成功サンプルとして全国から見学に来てもらうような、そのくらいの時があったのよ。私に与えられたのは、国営公園の仕事だったのね。作業療法士さんが稼働率を増やすためにやる、トレーニングがあるでしょ。リクリエーションは普通のレクリエーションね。それを合わせて、その人が健康になるために、遊びの中にリハビリが入ってきて。楽しみながら自分が元気になっていこうよ、ってゆう公園にしたいってゆう意向で。
 そのプログラムをどうするか、プログラム開発から、それをみんなに広めていくボランティア要請とかが業務だった。朝から夜中まで仕事して、次の日の朝仕事に入ってって、本当の徹夜だよね。忙しい時には、そんな仕事がずっと続いたりとか。本当に死んじゃうなとか。
 でも、その公園には、自分の余暇を利用して自転車や、テニスとかを楽しむ人たちの、番をしてるわけでしょ。人生なんか違うなとか、いいのかな私このままで、とか思って。このまま死んでっちゃうような気がする、と思ったからQを辞めて。
―その間は何をやったの。
 間はね、十一月にQを辞めて、冬は、スキースクール。障害者でスキーをやりたい人の受け入れをしたり、キッズの受け入れをしたりして。サラエボ・オリンピックに出た人がその校長先生だから、子供たちがいっぱい合宿に来るのね。だから、その生活の面倒をみたりとか。でも、誰よりも早く、あいつには負けないよ、みたいな。トラブルが起きたり、いじめがあったりとか、結局は、そんなサポートになっちゃった。
 春になった時に、「続けて手伝って下さい」って言われた。スキースクールなんて、社会に出たことのないフリーターみたいな人と一緒に働くでしょ。そこには、今選手になりたくて頑張っている人たち、現役の選手ばっかりが、インストラクターだから、ある意味真剣だし、ある意味社会の流れを知らない人たちで。
 たとえば、ダイレクトメールを出すのに、AレッスンとBレッスンに来ていれば、履歴が2つで出てきて。同じ手紙が2通送られてくるんだったら、チェックして1個にしようよ、って言ったら、「いいじゃん、社長がこれ送れって言ったんだし」。「え~信じられない、そんなこと言う人」って、みんながそういう風だから。また、その社長も自分がレッスンに出たいんだよね、自分が元気なうちにレッスンしてって。そういう世界だったから一緒には仕事できないなぁって。自分は社会を見てきているでしょ。
 
影番長
 春営業が終わった時に、JRのスキー場の方に入って営業課で仕事をしたの。その営業課ってゆうのは、売店とレストランのお店を実際に開けて、館内の営業活動を知ってもらうことっていうのが範囲。毎日正社員ではなく非常勤ってゆう立場で入るから、自由なんだよね。
 その営業課の課長さんは、JRのスキー場なんだけど。村の職員も1人、2人そこのスキー場の中にいれて、村もサポートしていますよっていう風な運営の仕方をしてたから。今まで牛を育ててた人が、営業課の課長になっちゃったのよ。正社員の人たちは、人を使ったことのない人たちが管理をしようとするからさ、「待って待って、これ無駄だよ」とかって思っちゃうじゃない。でも課題は、JRの本隊から落とされるでしょ。資料ができなかったりしたら、「こういう風に考えたらどうかな」って。プログラムを作って、「はぁ、じゃあ会議に持っていきます」みたいな。影で仕切る。それがまた面白いんだけど(笑い)。
 私だって、そんな山を好きじゃないけど、ここに来てほしいとか思って。「ここにはこんな素敵な自然があるよ」ってアピールをしようって。仲間に言ったら、「うん、いいね」って言って。
 でもみんな体を動かすのが好きじゃない子たちだから、私が十日に1回、山頂まで行って全部花の写真を撮って。「このエリアは花が見ごろだから、ぜひ行って下さい」とかってゆうのを、もう壁全部使って。Qでやっているようなことをそのままやったら、JR本社から「すばらしい」とか言われて。
 だから、Qで普通にやってたことが、他の会社で生かされることがあるし。普通の会社ですごく普通にやってたことが、Qでも生かされることってあるから。何をやってもプラスなんだと思う。だから、あぁ、違う世界が見れて面白かったな。時間は自由だし。
 
保護者とのズレ
―Qは戻りたいと思って、戻ったの?
 軽度発達のクラスを立ち上げて、お試しプログラムを半年間、そっからスタートして、半年間。ちょうど丸1年立ち上げのところに携わってて、「ここに私が抜けた時に、この人が替わりにやって、そのためにこの人付けて」とか段取りをして辞めた。
 でも、やっぱりうまくいかなかったんだよね。知的障害と軽度発達の違いが分からなかったんだよ。指導者が、「○○ちゃぁん、□□しますよぉぉ」とか、小学生に対して、幼稚園の口調だったり、テンポだったりして、話しかける。
 そしたら、「分かってるの? 私たちの子供たちのこと!」みたいな。心は、その学年相当でも、コミュニケーションが足りなかったりとか、本当の学習が足りなかったりとか。本当に、ワンポイント足りないところがある子達だから、十人十色じゃない、あの子達は。だけど、それを十分分かってあげられなくて、足りないところがポロポロ。
 それに対していろんなわだかまりが、保護者とQと重なって、「訴える」、「裁判かける」ってゆう話になって。だから、お母さんたちがお金を出し合って、「あなた一人くらいだったら雇える」って言われて。私がNPOを立ち上げて、その子達のクラスをやれって言われて。でも、私が一人で頑張ったって、私が一生この子たちの面倒を看れるのかって言ったら、お嫁にいくかもしれないしさ(笑い)。面倒看れないかもしれないでしょ。
 じゃあ、次を育ててって言ったら、どこからリクルートしてくるのとか、私自身に責任がとれないと思ったんだね。それなら、Qに戻って、Qで人と場所を借りてプログラムをやった方が、私がもしお嫁に行く時には、次の人を育てればいいわけだから支障はないでしょ。保護者も、私が帰ってきたら、とりあえずQは続けると。だから訴えるのも取り下げるって言ったから、「じゃあ、Q帰る」って言って。
 Qからも、「とにかく帰ってこい」って言われて。「どうしよう、そしたらもう二度とQ辞めれないし」とか、いろいろ考えた。でもやっぱり、その子たちに責任を感じてるところもあったんだよね。その1年やって辞めちゃったってゆう責任から、ちょっと、良心働いちゃったかなぁ、戻ってきちゃった。
―戻ってきちゃったの。
 私がやってないことをさ、無条件に「ごめんなさい、ごめんなさい」って言って、許してもらわないといけなかったり。「はぁそうなんですか。Qはいけませんね」みたいな。そうやって聞いたら、嬉しいってゆうか、とにかく「ごめんなさいシリーズ」が1年間続いて。
 さらに、「Qは、言えばやってもらえる」みたいになっちゃうでしょ。文句言えば、私たちの方が勝てるみたいな。その障害を持っている親が決して悪いわけじゃない。やっぱりいつもいつも虐げられたり、つらい思いをあの人たちはしているじゃない。だから、ちょっとでもよく面倒看てほしいとか、思いとして、すごくQに入れ込んでいるってゆうかね、そんなところがあるから。余計にお願いが大きくなっていくんだと思うの。それをどういう風に受け止めて、どこまで聞いて、どこまではできませんって言うのとか、その辺が難しいなって思った。
 
十人十色
 障害児の、その知的な子供たちに対する体操教室をやってきた時は、子供たちの成長がみんな同じようにゆっくりで、ある時急にグイーンって伸びたりしないから、お互いが許せるんだよね。「○○ちゃん、上手になったね、一人で回転できるのね」とか、それぞれお母さん同士が仲良く子供を認めて見守ってくれてた。
 でも軽度発達の子達は、「この子はお勉強ができる」、「この子はコミュニケーションがダメ」とか凸凹が激しいでしょ。だから学校で、「○○ちゃんは暴力ばっかりふるって本当にダメよね。あの子のそばにいると怪我しちゃうから、あの子と一緒にしないで」とか傷つけられている。
 だからお母さんとしては、子ども達それぞれに得意、不得意があって、みんなが、少しでも他の人によく見てほしいっていう思いが大きいから、お互いが喜べないんだよね。お互いの子供のいいところを認められないんじゃないかな。
 私が一番最初に失敗したのは、「○○ちゃんすごく上手になってよかったね、跳び箱五段跳べたね」って。ある子をみんなの前で褒めちゃったりすると、もうノー。今までは、「○○ちゃん、これできた」って、その都度みんなで言って、みんなでシェアし合えたけど、この場合はそうじゃなかったのよ。
 どこかで私を批判しておいて、みんながひいていくと、「私だけだよ、あなたに付いてってるのは」みたいな理論。すごい人間の怖いところを見ちゃったね。そんな風に追及されて、人生の中で一番どん底。どんな時よりも、どん底だった。こう中傷ばっかりされて、人が信じられないってゆうかね。
 今までは、この人はよしと思って話してたことを、全部逆手にとられちゃったり。なんでもかんでも、「訴えるよ」みたいな。でもそれは、本来おかしな話じゃない。おかしな話だけど、「ここではダメなんだ」ってゆうのを、その時初めて知った。
 でも、それくらい私たちが頑張らなくっちゃいけない、いいかげんにしちゃいけない、期待されてるんだろうなって思う。理想としては、一人の成長とか、変化をみんなが認め合えれるような環境や仲間を作りたい。
―プリン、お嫁にいこうと思ったことはないの。
 お嫁に行こうと思ったこと、ないわけじゃないけど、相手がいなかったかなぁ。でも一番最初は、大学のゼミの研究で、男の子3人と私の4人で車椅子マラソンの研究をしてたの。その中の1人が、車椅子で生活をしている子で。その頃小学校に、「車椅子では生活できないから、養護学校に行って下さい」って言われて受け入れてもらえなかったの。別に知的な遅れじゃないからさ、車椅子だからって、少々不自由してもいいですって言っても、「いいえ、怪我をしたら困ります」みたいな。
 その子は、中学校、高校も全部養護学校で、養護学校しか行けなかったのよ。「僕は地元でね、障害者が普通の学校に行きたいって希望を出したらね、いいよって言ってあげられる公務員になりたい」って。「だから福祉職について、福祉問題に取り組みたい」っていうのが彼の希望だったのね。でも、私が早々にQを決めちゃって、ほんとに仕事が忙しかったし、遠距離恋愛は無理だった。携帯がなかった時代だからね。忙しくて、おうちの電話にも出やしないみたいな。だから、すれ違いで「さよなら」しちゃったね。まぁ結婚をして子供もいるんだけど。「あん時お前、俺と結婚しとけば良かったのに」とかそんなネタになる。
―いまだに連絡をとってるんだ。
 うん。子供がね、生まれる時に自分は車椅子じゃない。どんな子が生まれるか心配だったり。奥さんが、七つくらい年上なのかな。高齢出産だったからさ、一か月前から入院し出産されたから。家に一人になるでしょ。そしたら、「はぁ、なんで男は無力なんだろ。俺はなんにもしてやれない。父さんはほんまになんの力もない」って、そうやって電話をかけてきて。不安でどうしようもないとか、そんな話もできる。だから、わだかまりはないけど。
でも、出会いはないよ、ここにいると。
―じゃあ、プリン、このままずっとQにい続けるの。
 いやいや、嫌。「お嫁にいこうかな」って思ってて(笑い)。

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室