語られたストーリー
2011.02.12 12歳で敗戦を迎えて 語り手 (男性 74歳 2006年取材)

 【あらまし】

 中学一年生(12歳)の時に敗戦を迎えた男性の語り。戦時中に「真実」だと教えられていたことが、敗戦後まったく否定されたことを経験した。敗戦を境にまったく違ったことを教え始めた教師たちへの不信感から、「自分でものを考える」ことに目覚めたという語り。
 同世代の人たち全ての人が経験したことかもしれないが、語り手はその経験を人生の「原点」と考えている。戦争を知らない世代にこそ読んでほしい語りである。
 
●小見出し
 敗戦前の出来事
 敗戦の出来事
 敗戦の日を境に
 中学校の先生たち
 自分でものを考えることの目覚め
 
敗戦前の出来事
 戦争真っ最中だった時、昭和二十年四月、中学校一年生の時ある日、草取り作業をさせられていた。刈った草をどこか積めと言われたが、まだ入ったばっかりで、学校がどのようになっているかよく分からず、草を入れた竹の箕(み)を持って運動場をうろうろしていた。そしたら上級生がやってきて、
「きさま、たるんどる」と怒鳴った。そして、「脚開け、手を腰にあて、歯をくいしばれ」と言われた。三人で往復ビンタをするわけ。めちゃめちゃヒドクなぐられた。
 何も悪いことしとらんのにと、くやしくて、だけど反抗したら、どうなるか分からんのでこらえた。上級生がどっかへ行ってしまってから、家に帰る気になれず、長良川の土手に行って、空を見た。西の方の伊吹山に夕日があたって、素晴らしい光景でした。その時、何か、
「宇宙は悠久だぞ」と言われた気が。そのように聞こえた。お前の悩みは小さいと言われたと思った。「そうだ」と思ったら、気が楽になって、家に帰った。そのことを今でも忘れることはできない。
 
敗戦の出来事
 敗戦の出来事ね。簡単に言うと、敗戦の日までね、大人たちは「日本は勝つ」と訴えてきた。信じさせられてきた。大本営発表は、かなり嘘で固めてね、「我軍勝利」とかね、やっとった。もう一つ重要なのは、小学校から中学の先生が、まず、教育勅語から軍人勅語から暗記させてね、「天皇の名前を暗唱せえっ」とかね、いろんな日本の皇国史観っていうの。そしていつも言われたのは、天皇は人が現人神(あらひとがみ)と書いて、人として、現れた神だと。「国民は陛下の赤子」、天皇の子どもであると。したがって、
「諸君の本分は天皇陛下の御ために命をささげ奉(たてまつ)る」ってすごい昔の言葉よ。「御ために命を捧げる、奉る」って言ったね。また、「お国のために命を捧げることである」と。
 今でもあの場面が浮かんでくるけれども、子ども心(こころ)につかんだのは「神風特攻隊になって死ぬことだ」と。だから「僕の人生二十歳までだ」と思ったね。特攻隊で死ぬから。それで、「そのためには体を鍛えないかん」と。
 僕は小学校一年生からずーっと体が弱くて、病気になりやすい体って言われた。体操も下手で、いつも昔の甲乙の乙で、鉄棒も逆上がりもできなくて、「飛行士や操縦士になるには体を鍛えないかん、操縦するためには、腕も強くないといかん」っていうことで、本当に小学校四、五、六年は、鉄棒やらないかんと思ってね、やっていたけどね。休み時間まで練習しとった。
 
敗戦の日を境に
 それが八月十五日で、がらっと変わったわけ。昼の十二時に「玉音放送」があるって天皇がラジオで話すって。神様が話すってビックリしたよ。難しい天皇の日本語で意味がとれなかったけれども、父親の説明によると、日本はアメリカに無条件降伏したと、それでアメリカ軍が来ると。その時、日本人としての誇りを失うな。これだけ説教した親父ね、中学一年でしょ。もう一つ忘れられない出来事は、親父の田舎って岐阜の近くの村だけれども、田舎道を歩いてたら、自転車に大きな麻袋を積んでおじさんが走っていく。要するに、食糧難だったから、田舎に芋やなんか買い出しに来るわけ。それを積んだおじさんが走っていったけれども、まだその頃は、他に着るもんないから、軍服とかね、それから戦闘帽という帽子をかぶっていた。で、それに見覚えあった。
 中学入ってからね、配属になった将校、中尉だね。軍事教練をやるわけ。軍事教練を僕たちに叩き込んだね。しかも僕たちは戦闘帽と軍服の子供用を着せられて、手榴弾を投げる練習をしょっちゅうやっていた。敬礼とか号令が厳しかったね。軍事式で、その教官は、ピカピカに磨き上げた皮のブーツ、乗馬鞭、それにへりのピシッと立ったね、戦闘帽でない方の軍帽な。そういうのもかぶってた。ほいで厳しい声でびしびし叱って、僕たちも一番怖い先生だと思っていた。その先生と田舎で会ったわけ。
 それで当時は、上級生と教員に対してはね、五〇メートル以内で見かけた場合には、直立不動で「敬礼!」って叫ぶような時代、そういう時代。上級生と教員を見つけたら、途端に直立不動で「敬礼!」って叫んで敬礼するように訓練されていたから、してたわけ。ほんで昔の習慣で「敬礼」ってやったら、そのおじさんは振り向いて、一目散に自転車こいで逃げていったね。つまり、身分がばれると怖いわけ。やっぱり悪いことしてる、気がとがめるところがあったんでしょ。
 だから、僕はそれが忘れられない。つまり、あれだけ威張って、権威を振り回して、僕たちを怖がらせていた大人が、こんなに弱いもんかという。これ原体験。今でも振り向いて逃げる姿が浮かんでくる。
 
中学校の先生たち
 それで学校行くでしょ。これまた九月ですよ。先生方がおっしゃる事は、夏休み前と全然違うわけだね。とにかく、「もう天皇のために死ななくてもいい」、「日本は民主主義になった」と。「諸君の本分は、民主主義社会のよき市民になることだ」と。その意味が分からんわけ、こっちは。市民って岐阜市民だがやと思ってるわけでしょ。それは占領軍で講習会があって、先生が言われたことをオーム返しにしゃべってたって、今は分かる。先生たち、意味が分からずにしゃべっていた。とにかく、しばらくして、「天皇人間宣言」ってやつでね、「天皇は神じゃなくて人間だ」ってことになるでしょ。「まともに見たら目がつぶれる」って言っとった天皇が、僕たちの中学に巡察にきたわけ。しばらく天皇が日本中回ってね。焼け跡の中学で天皇が理科の教室に座って、言葉は覚えとらんけども、僕たちの教室ものぞきにきてね。「背の小こいおじさんだなぁ」と思って。あんまり先生がおっしゃったことが変わっちゃったんで、ついていけない。納得できん。これは強烈だったよ、僕。ほいで、ある日、「あのー、先生質問あります」って。「何だい、北山君」って言うから、「先生があんなに夏休み前まで一生懸命おしゃってたこと、あれは全部どうなったんですか」って聞いたら、先生が困った顔してね。だって、その先生、軍服着とったからね。軍服着て、ライオンっていうあだ名で、みんなが怖がっとった先生が困りきってね。
 「あれは、あれは、日本中が騙されとった。一握りの軍部に騙されとった」まずその一言。あと一言は、「踊らされとった」と。これもほとんど一語、一語、忠実に覚えとる。あまりに強烈だったから。中学一年の間の僕の一日だよ。「踊らされとった」って。ほいでこっちは本気で聞いとったわけなのに、「先生は操り人形が踊らされとったように、踊らされてしゃべってたんだ」って思わざるをえないんじゃない。それで、これ、大ショックだ。先生の言っていたことを本気で信じとったらひどいことになるんだよね。じゃあ、今はアメリカがやってきて、民主主義って言っているけども。また世の中が変わったら、次はどう言うか?
 中学二、三年の頃だと思うけども、共産軍が蒋介石軍をほり出して、共産政府ができかかっとったでしょ。一九四八年に成立したわね。だから、やっぱりそこまでいく前だったと思う。「共産軍が日本になだれ込んできて、共産政府ができたとしたら」と考えてみた。それは中学二年になった頃だったと思う。全国の労働組合がゼネストを決めた。で、マッカーサーが禁止したもんで、全部失敗しちゃってけれども。あらゆる労働組合が、教員まで巻き込んでゼネストっていうのを打とうとしたわけ。教員までもが朝礼台に立って、「われわれ教師としては生徒諸君には申し訳ないが」と、やったとたんにマッカーサーの禁止命令がきたでしょ。そういう時代だわ。
 そうするとね、社会主義勢力、共産主義勢力だね。すごい時代だ。日本に米よこせ運動とかもあったから、子ども心に、「共産主義政府が来ることも、ちっとも不可能じゃない」と思った。そうすると、もし共産政府が日本にできたとしたら、この先生はなんておっしゃるか。「あの頃はアメリカ帝国主義者に騙されとったとおっしゃるだろうなぁ」と思ったよ。
 
自分でものを考えることの目覚め
 そうすると、僕の中でだんだん固まっていった気持ちは、世の中変わる、ものすごく変わる。ひっくり返ったわけだから。そうすると、先生や大人の言うことを、まともに信じとっては、ひどい目に合うね。自分の人生、どっち向いて生きとるのか、分からんことになってしまう。それで、じゃあ自分はどう生きるか。「世の中がどんなに変わっても変わらぬものを自分の責任で見つけ、自分の責任で確かめ、それを自分の人生の土台にして生きる」こういう表現できるようになったのは、三年生に入ってからだと思う。これは言葉ではっきりと思ったよ。
 学校の先生も「軍部に騙されとったの」と言って、自分では責任を取らない。自分の人生は自分の責任で生きるしかない。それでもうねぇ、学校というものは、権威を失ったね。試験はちゃんと勉強する。やっぱり、つまらん点取ったら、自分として納得できんから。でも、勉強は自分で考えてする。教師の言動もそのライオンっていうあだ名の先生だけじゃなくて、他の先生たちも全部変わったからね。そういう時だ。今思うと、中学生の時のこの決心が、その後の自分の人生を一貫して貫いて来たと思うよ。
 高校一年で名城大学の田村先生に出会い、三年間ニューマンの大学論を教わった時、「これだ!!」と思った。大学は何を与えるかというと、「単に多量の知識を与えるだけでない。世界と人生すべての根本を見ぬき、力強く人生を歩む力を与える」と。
 それで、戦後の貧しい中で、三十代だった父が十一人家族を必死で養っている時に、「僕、大学という所に行きたい」と頼みぬいて、一ぺんだけ大学受験を認めてもらった。大学に入ってからも進路については、エリートコースの出世競争についてゆけず、「食ってゆけんぞ」と脅された哲学に進んで、さんざん苦労した。またキリスト教の家に育ったから、高校一年の時こんなことがあった。ある夜わが家の集まりで、牧師に、「聖書は神の言葉と信じていいと思うけど、自分一人ではむつかしいので、どうしても先生の説明を通して理解することになります。でも先生のご説明が正しいか、それを証明して下さい」と、牧師に言った。牧師はね、「きみ、理屈を言うようになったね。だから私は自分の説明が間違わないように、偉い先生たちの研究書をいっぱい勉強して話している。みんな英語だよ」って言ったよ。ほんで、「この先生、僕の質問の意味が分かっとらん。もういい。神様に直接聞くしかない。もし神様がおるんなら、教えてくれるはずだ」と思った。
 東京では西山先生に特別おせわになって洗礼を受けたけど、先生が亡くなられて、大変苦しんだ中、「神に叫ぶ」ことをして不思議と立ち上った。その直後、聖書を独自の仕方で説く大山先生に出会って、その仲間の中で五年間全力で働いたけど、五年目、どうしても、現代キリスト教の狭い考え方に疑問が湧き、とうとうそのグループを脱出し、失業した。
 みんな「どうやって食ってゆくと、子ども二人もかかえて…」と心配してくれたが、「この自分に役割がある間は、神様は飢え死にさせないよ」と言い切って、冬の寒空を仰いで、「神様、こんどはこの私にどんな活動舞台を用意していて下さいますか? 楽しみです」と言いながら歩いた。そうしたら、半年後今の大学に奇跡的に拾われた。どう? 「物事を自分の責任で徹底的に見きわめて生きる」という姿勢、一貫してるだろ。僕自身は今、しみじみそう思ってるよ。
 

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室