Sugiyama 人間になろう 椙山女学園歴史文化館

最新の歴史の窓から

【歴史の窓4】 岸田劉生(画家)と芥川龍之介(作家)の来園

 

 岸田劉生は「麗子像」などで有名な画家であり、大正10(1922)年1月29日に当時の椙山高等女学校講堂(現在の中区泉1丁目で当時は富士塚町)で、名古屋基督教会青年会(YMCA)主催の「装飾と模倣」と称する講演会があり、ここで講演を行いました。
 これについては、本学園の機関紙である「糸菊」にも記録がなく、また、過去に編纂された本学園の50年史、75年史、100年史編纂の折にも確認されなかったできごとでした。平成19年9月15日~10月28日に刈谷市美術館で開催された「画家・岸田劉生の奇跡」「岸田劉生と愛美社の画家たち」という展覧会の事前準備にあたり、同美術館より情報提供を受けて判明したものです。
 雑誌「郷土美術」に連載された岸田劉生に関する名古屋での活動状況や当時の新聞「名古屋新聞」(大正10年1月27日付)に記載された「椙山高等女学校岸田劉生美術講演会」の広告の複写物などにより確認を行いました。
 この時は、洋画壇で有名になり、のちに挿入絵でも活躍した木村荘八も講演会に参加しています。
 一方、芥川龍之介は「羅生門」を始めとした数々の作品を世に送り、文壇界の頂点に位置づけられる作家であり、大正11(1923)年1月28日、同じく椙山高等女学校講堂で「文芸講演会」と題して講演を行いました。同時に、菊池寛、小島政二郎といった有名作家も講演を行っています。
 この講演会については文学界の間でも早くから知られていましたが、本学園では「椙山女学園75年史」(昭和  55年刊行)編纂の折、詳細な調査が行われ、講演会の全貌が明らかにされました。
 当時の新聞「新愛知」(大正11年1月28日付)に「本社後援の文芸講演会:桜楓会の主催の下に廿八日椙山女学校で」という見出しの記事が掲載されています。また、講演内容については「眼中の人」(小島政二郎/岩波書店/昭和30年)、「芥川龍之介」(小島政二郎/読売新聞社/昭和52年)に詳しく記されています。
 
 
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以上は「歴史文化館ニュース第3号」に掲載されたものです。

【歴史の窓 3】 椙山女学園と前畑秀子

 

「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!・・・」
 前畑秀子氏が1936年(昭和11年)に開催されたベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎで金メダルを獲得した時、実況中継でのNHKアナウンサーの声援です。
前畑秀子氏は1914年(大正3年)に現在の和歌山県橋本市に生まれ、近所の紀ノ川で水泳に親しみ、高等小学校2年生の時に汎太平洋女子オリンピック(1929年(昭和4年))の女子100m平泳ぎで優勝、同じく200mでは準優勝という成績を上げました。この活躍ぶりを聞いた椙山女学園創設者椙山正弌(以降「椙山正弌」)氏は、当時の椙山女学校への編入学を前畑秀子氏にすすめました。これをきっかけに椙山女学校に編入し、水泳を続けることになりました。
1928年(昭和3年)、現在の山添キャンパスの地に第二高等女学校の室内プールが完成しています。椙山正弌氏はこれに遡る1922年(大正10年)にアメリカへ教育視察に行ったことから、アメリカ
の進んだ社会情勢や教育を学び、帰国後は立て続けに校舎の整備と教育内容の充実に力を注いでいきます。
広大な山添キャンパスを取得し、アメリカのカレッジを思わせるような校舎を建設し、教育の一環としてスポーツ活動を積極的に奨励していきます。室内プールの完成もその一つであり、前畑秀子氏の編入学もこうした流れの中にあったといえます。
その後の前畑秀子氏は1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルスオリンピックの女子200m平泳ぎで銀メダルを獲得した後、椙山女子専門学校に進学し、冒頭に述べたベルリンオリンピックへの出場となりました。
1937年(昭和12年)に結婚し、兵藤姓となりますが、早くに夫に先立たれた後、椙山女学園の職員として勤務するかたわら、水泳では後進の育成につとめ、1995年(平成7年)に80歳で逝去しました。
 椙山歴史文化館には前畑秀子氏に関する数多くの資料が残されており、歴史展示室に展示されています。
 
 
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以上は「歴史文化館ニュース第5号」に掲載されたものです

【歴史の窓 2 】 小倉遊亀と椙山女学園

 

 

 小倉遊亀(旧姓溝上)は、上村松園とともに日本を代表する女流画家のひとりであり、明治28(1895)年3月1日、滋賀県大津市に生ました。大正6(1917)年、奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)に入学し、ここで図画の教師であった横山常五郎に絵の指導を受けています。
遊亀は、大正8(1919)年5月から翌年3月まで、当時の椙山高等女学校に国語の教諭として着任しました。事実、在任中の大正9年版の卒業アルバムの教員写真(右写真)にその姿をとどめています。1年足らずの短い間ではあったが、授業だけではなく「校友会」の役員として雑誌部の部長を務め、『糸菊』大正八年号の編集および発行の代表者として奥付に名前を残しています。
その後、大正9(1920)年には、横浜の捜真女学校の教師となり、安田靫彦に師事しました。そして、大正15(1926)年には「胡瓜」が第13回院展に初入選しました。
戦後の小倉遊亀は、院展に優れた作品を次々に出品し、数々の受賞に輝いています。昭和55(1980)年には文化勲章を受章しました。女流画家としては昭和23(1948)年の上村松園以来のことでした。
平成12(2000)年7月23日、105歳の長寿を全うして逝去しました。
 
 

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【歴史の窓から 1】 <森川如春庵と椙山女学園>

 

 

以下は、紙媒体の「歴史文化館ニュース 創刊号」に掲載されたものですが、転載致します

 

【文化展示室トピックス 1】 森川(じょしゅんあん)と椙山女学園
                         
 
 歴史文化館開館記念企画展「椙山正弌・今子 趣味の世界」に於いて、「男爵益田翁孝貞三輪女頌徳之詠草」と題した掛け軸が展示されている。
 この掛け軸の箱書きには森川如春庵の名前が記されており、展示品として事前に調査を行ったところ、大変貴重な掛け軸であることが判明した。
 森川勘一郎(1887~1980、以降「如春庵」)は尾張一宮の大地主森川家の当主であり、近代を代表する茶人の鈍翁益田孝(どんのうますだたかし/1847~1938)や山渓富太郎(1868~1938)など、時の日本を代表する財界人であり文化人でもあった人々と交流を結び、近代の茶の湯の世界で頭角を現した。書画や、和歌、俳句、作陶に熱心であった。また、茶道具の収集家でもあり、特に本阿弥光悦作の黒楽茶碗「時雨」(重要文化財)の所蔵者としても知られた。
 如春庵は昭和初期に一宮の本宅ではなく、覚王山の別邸で家族と暮らしており、3人の娘(故人)を椙山女学園に通わせていた(同窓会名簿で確認済)。この別邸から眺めた風景を山田秋衛(森川家と親交のあった名古屋の画家)が描いた「覚王山十景図」が知られているが、松林の間に椙山女学園の校舎が描かれている。
さて、この掛け軸自体は、別邸で暮らしていた時期に如春庵と親交の深かった鈍翁益田孝によって書かれ、如春庵が表装・箱書を行ったことから大変貴重な掛け軸である。
 掛け軸中、「孝」は鈍翁益田孝(三井財閥の初総帥でもある)であり、「三輪」は朝野三輪(1722~1806)で、60年間も病床にあった夫に仕え、貞婦として知られた一宮出身の俳人である。この貞婦を讃えるという内容から当時の椙山女学園に贈られたと考えられる。
 今回の調査によりこの掛け軸は薄い桃色の紙面に書かれ、一方で森川家には白色の紙面に書かれた同様の掛け軸が存在しており、紅白で対をなすことが判明した。
 また、現在の森川家(一宮市)には、如春庵が編集した「夏蔭帖」という書物を椙山女学園に寄贈したことによる校長椙山正弌の礼状(大正15年当時)が残されている。これは如春庵との親交が窺えるものであり、如春庵と椙山女学園は大変縁が深いことを示している。
 (今回の調査は文化情報学部の飯塚恵理人教授に全面的な協力をいただいた)
 
 

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男爵益田翁孝貞三輪女頌徳之詠草

 

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