Sugiyama 人間になろう 椙山女学園歴史文化館

2010年7月アーカイブ

【歴史展示室トピックス 2】 <開校当時の模型>

【歴史展示室トピックス 2】 開校当時の模型

 

 明治38年の名古屋裁縫女学校の開校当時の生徒による模型です。名古屋市富士塚町(現在の東区泉あたり)にある尾張藩の稲葉邸を借用し、開校しました。模型から察せられるようにその屋敷は間口が広く大きな門構えのある大屋敷で、開校式やその後は教室と使用される事となる桜の間と呼ばれる部屋のすぐ目の前には大きなしだれ桜の木がそびえ立っていました。写真パネルコーナーにはその桜の間の縁側で談笑する生徒の姿や、点茶を楽しむ生徒の姿が展示されています。開校当時およそ90名だった生徒は翌年にはおよそ250名まで達し、次々と増えていく生徒の数に教室不足が生じたことから屋敷の東側に分校を新築しました。分校ができた当時の地図「学校位置及附近之図」からも伺い知る事ができます。
また近くには武家屋敷のほか善光寺や高岳院などの寺院や、近隣にも多くの学校が設立され、名古屋で最初の文教地区が形成されていきました。
 
模型.JPGのサムネール画像

      以上は「歴史文化館ニュース 創刊号」に掲載されたものです。

 

【歴史展示室トピックス 1】 <開校当時の制服>

【歴史展示室トピックス 1】   開校当時の制服

明治38年の開校当時の生徒たちは髪を日本髪か束髪にし、海老茶の行灯袴(あんどんばかま・股の間に仕切りのないスカートのような形の袴)に、足元は下駄というものでした。この海老茶というのは紫を帯びた暗い赤にやや茶色がかった色で、当時、女学生の袴の色として流行していました。またその様子を平安時代の才女・紫式部になぞらえて、女学生を「海老茶式部」と呼ぶ事もあったようです。現在では、皇室において内親王が5歳を迎える際に執り行われる「着袴の儀」にもこの海老茶が使われています。当時はまだ校章が制定されていなかったため、裾の黒い波形テープによって椙山の生徒とみなされました。その後、この波形は同色直線2本になったり、その間に白線を加えたりしながら時代と共に変わっていきました。
以上は、紙媒体「歴史文化館ニュース 創刊号」に掲載されたものです。
DSCF1559.JPG

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