書かれたエッセイ

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2013.04.29 意外にも波瀾万丈だった私の21年を振り返って (女性 21歳 2012年取材)

祖母の涙
 私は、A県のほぼ真ん中に位置する田舎の町に、二一年前に生まれた。家族構成は父、母、二つ上の姉で、親は共働きで二人とも公務員である。そのため、裕福でもなければ貧乏でもない、普通だが、かなり安定した暮らしをさせてもらっていた。
 ただ、小さいころから父親が厳しく、遊びに行くのを規制されるなど、自分が思っているように事が運ばないことが多々あった。保育園、幼稚園、小学校は近所の学校に通っていたが、両親ともに割と教育熱心な方で、本ならすぐに買ってくれたのだが、おもちゃはほとんど買ってもらった記憶がない。そして、中学受験を嫌々させられ、中学校と高校は隣の市にある私立の学校に通っていた。
 家族構成は現在4人だが、生まれてから一一年間くらいは、父方の祖母と祖父とも暮らしていた。しかし、小学校六年生のときに、事件があった。
 その日の夜、母が仕事の終わる定時刻よりも、いつものごとく遅く帰ってきた。私は祖母が荷物をまとめている姿を目撃した。そして、「何かあったの?」と聞いた。すると、「もうおばあちゃん、この家に居れへんわ。お母さんの態度に耐えられへん」と言い、泣きながら私に抱きついてきた。
 いつもニコニコしていて優しく、時に厳しい私の知っている祖母の姿と全く違い過ぎて、本当に衝撃的だった。そして、その後、祖父と共に今まで住んでいた、もう一つの家に帰ってしまった。そのときすぐには、何が起きたのか状況がよく読めなかった。
 その原因は母だった。私の母は仕事が忙しいためか、土日以外はご飯をつくることがなく、弁当も祖母につくってもらわなければいけないくらいだった。そして、何かしてもらっても感謝や申し訳ない気持ちを言葉に表現することはほとんどなく、挨拶もほとんどない。母の祖父祖母との会話はほとんどなく、会話しなければならないときは、私の幼いころの目でも、面倒で煩わしそうに見えたほどだった。そんな母の態度は私が大きくなると、より一層ひどくなっていき、祖母はその態度に耐えられなくなり、家を出ることに決めたようだった。
 そこから数年は父、姉、私とは一年に数回くらいは顔を合わせる機会があったが、母と祖母は数年ほど顔を合わせることがなかった。この一件から母の前で祖母の話をするのはタブーという空気になり、父も心なしか母に気を遣って不満を感じているような感じがした。
 そして、私は家に帰ってきても誰もいない、今まで感じたことのないような寂しさを感じるようになった。今思えば、母がもっとちゃんと祖母に気を遣うべきであったと思うし、祖母も母に対して低姿勢で気を遣い過ぎだったとも思う。
 しかし、こういった事件があったが、母は自分のせいで祖母が辛い思いをしたことは少しもわかっていないようであった。鈍感であるのか、悪いことであるという認識がないだけなのか、このときはまだ小学生であったが、家族であってもお互いが気を遣って生きていかなければいけないことを学んだし、自分の態度一つで相手を嫌にさせることがあるということも学んだ。
 気を遣い過ぎても、自分が辛くなるだけなので、バランスは難しいが…。これは現在も、継続して心に留めていることである。そして、どんなときでも愛想よくし、相手に不快感を与えないようにつとめている。

別れのメール
 前述のとおり、私は地元の公立中学校へは進まず、私立の中高一貫校に通っていた。中高一貫校のため、中三のときでも高校受験は、一般入試のような難しいものはなく、形式的に三年間のまとめテストのようなものが行われ、それを受けるだけで高校に楽に進むことができた。
 転機は、中一から高二までほぼ同じメンバーであった中高一貫コースから、文理Ⅰコースという、他の公立中学校から一般試験で入学してきた、国公立私立大学を目指す生徒がいるコースへコース変更したことだった。
 その高校二年生の一年間は、私が生きてきた二一年間で最も長く感じられた変化のあった一年であった。六年間中高一貫コースにいたのではなく、なぜわざわざ他コースを選択することになったのか、そのコース変更した経緯についてこれから話そうと思う。
 私には、中二から高一まである同じ学校の同級生と二年半ほど付き合っていた彼氏で、Bという人がいた。しかし、高一の冬に倦怠期を迎え、相手からまさかの別れをメールで切り出された。嫌いになったわけではないが、友だちに戻ろうという理由であった。内心、自分は彼のことをまだ好きであったため納得はいかなかったが、意地を張って、「私もそう思ってた」とウソをつき、結局別れてしまった。
 しかし、彼は別れたにもかかわらず、そのあとすぐに、半年ほど恋人のときのような関係を求めてきた。みんなの前では普通にして、と…。それでも相手がまだ自分を必要してくれているんだという気持ちで受け入れていたが、自分は次の彼女までの、ツナギとして利用されているのではと感じて、自己嫌悪に陥ったりもして、正直辛かった。そんな関係が高二の一学期まで続き、「誰にも言うな」と口止めされていたため、彼と私以外でその関係を知る人はいなかった。彼とは別れてしまったが、彼には私しかいないのだという感覚で、そのとき彼は自分のものであるんだという意識でいた。
 そんな中、私が中一のころからケンカや仲間外れなどいろんなことがあったが、仲良くしてきていた親友とも呼べる友人のCという人がいるのだが、高二になってからBと急接近しているところを見てしまった。私に隠して付き合っているのかと思い、Cに「付き合ってないん」と聞いたことがあるのだが、「そんなわけないやん」と言って、否定されたため少しの間は安心していた。BとCは、私がBと付き合っていたときから、友人として仲が良く、CはBと私の二人の相談を受ける役として、なんでも相談していた仲だった。しかし、そんなCがBと学校の誰もいない教室で会っているのを、数回ほど目撃してしまったのだった。
 そこから、二人の動向が気になった。今になって思うが、私はCに対して嫉妬心を抱いていたと思う。二人と私は同じクラスであったため、二人をできるだけ近づけたくないように行動していた。Cのことは前から信頼していたし、最も仲の良かった友人であったのだが、今回の一件で疑い深い気持ちをもって接するようになってしまった。

孤立
 学校の友人とのおしゃべりは、それまで楽しいものだったが、全く楽しくなくなり、無口になっていった。その時期に修学旅行があったのだが、どの写真を見ても私があまり笑っている姿はなく、不機嫌な顔か不安そうな顔のどちらかであり、怖い顔をしていた。そんなせいか、周りの仲の良い友人たちに怒っているように見えたのか、こちらから話しかけなければ皆あまり話をしてくれなくなってしまった。
 皆が私に対してコソコソ話をしているような感じがあり、そのときはちょうど、一学期の期末テスト最中とかぶっていため非常に辛かった。中一のときにクラスのほとんどの女子から無視され、コソコソと悪口を言われていたことがあったことを思い出し、その当ときの辛さをまた味わうことになると考えると、逃げたい気持ちになった。私は一つのことでも引っかかることがあると、それ以外の他のことに集中できないところがあった。テスト期間という大事な時期であるのに本当に苦しまされた。こんなことで悩まされている自分が本当に嫌いで仕方なかった。
 そして遂に、そのテスト期間の最終日に体調を崩し通学中の電車の中で倒れてしまった。その日の朝、精神的に自分を追い詰めすぎて、どうとでもなってしまえばいいという思いでバファリンを通常の五倍服用するという、今考えるとぞっとするようなことをしていたためである。
 一緒に登校していた友人に、学校の最寄駅で電車から担いで降ろしてもらい、学校に連絡し、救急車が来て、病院に搬送されることになった。昼を過ぎたくらいに、病室の中で目を覚まし、母親が隣にいることに気づいた。体に異常はないとのことで、病院を後にした。倒れてから意識を失ってしまっていたそうだった。その日のテストを受けることはできず、特例のため公欠扱いとなった。
 次の日は日曜だったため、気楽に過ごすことができたのだが、月曜日に学校に行かなければならないことを本当に酷に感じた。あのまま意識を失ったまま、目が覚めなければ良かったと思ったほどだった。夏休みが近づいていたため、学校に行くのが少しだけであったが、それさえも苦痛で、どうやったら学校に行かずに済むかしか考えられなかった。夏休みが始まるまでは苦痛さを感じながらもなんとか学校に通った。
夏休みが終わって、二学期が始まってからも学校に行くことが苦痛にしか感じられず、学校にいるだけで蕁麻疹(じんましんん)が出ることが何回もあった。そして、授業中にも心の中の不安要素のことばかりを考えてしまい、落ちついていることができなかった。そのせいからか過呼吸や腕の痙攣(けいれん)などの症状を学校で引き起こし、倒れてしまうようになった。学校に行っても早退することが多く、学校のことを考えると家でもこの症状を起こすことが多くなり、学校を休みがちになっていった。そのせいで、私の学校は進学校で、ただでさえ授業進度が早いのに、どの授業もほとんどついていけなくなった。

不登校
 「休む→授業ついていけない→宿題がおわらない→学校に行けない→休む」という悪循環の繰り返しであった。数学は数ⅡBの分野に入ってからほとんど赤点ぎりぎりであったのに、休むことで余計授業についていけなくなり、進級できるかが本当に際どいところでもあった。
 BとCのことだが、私が休みがちになることで、教室の中でも、心おきなく仲良くできたようで、更に距離が縮まっているように見えた。自分は長期間休んでいたのに、Bが心配して連絡をくれなかったことは本当に悔しかったし、自分がこんなに辛い思いをしているのに、楽しそうにしている二人を見かけると、いらだちと自分の惨めさを感じ、やり場のない怒りがあった。
 一一月くらいになり、Cに本当のことを聞き、自分の気持ちをすっきりさせてしまおうと思い、Cを保健室に呼び出し、「本当はBと付き合っているんでしょ」と聞いた。するとCは、「黙っていてごめん。傷つけたくないと思って黙ってたんやん」と言った。話を聞いていたら、Bが私に別れを告げたその後、二人は付き合うことになったようだった。つらい現実だったが、はっきりわかったことで少しすっきりした。そして、Bにも、「本当のことを聞いたよ」といった。すると、Bは、「Cが言ってきたから付き合っただけやし」という呆れた返答をしてきた。
Cは私にはっきり伝えることができたことを安心したようで、特定の人以外にも付き合っていることを知らせるようになり、私が今まで学校を休みがちであったのは、その事実にショックを受けているからだというような噂が女子内で流れるようになり(あながちウソではないのであるが…)、すっきりしたはずであったのに、また学校に行きづらくなってしまった。BとCと私の三人ともが同じクラスであるというのが本当に私にとっての不幸にしか思えなかった。なんでも相談できる友人がいたら良かったのだが、思えばこのとき私にはそんな相談相手がいなかったのも、考え込んでしまう原因であったと思う。
 恋人関係の次に友人関係、それだけでなく家族内の関係も私の不登校が原因で悪くなっていった。
 「また学校行かへんかったんか」「このままいったら進級できれへんようになるのわかってるんやろ」「このままずっとダメな人間であるんか」「学校に行かへん学生なんやったら、この家から出てけ、働け」など、父親から散々耳が痛くなるような言葉を浴びせられた。
 母親からは、「お願いだから、学校行ってもらわなお母さんらも困る」と痛切に何回も言われた。しかし、体調不良や不登校の理由を親に相談できず、「行きたくないから」の一点張りで突き通した。
 普通の高校生であれば、親に悩みを打ち明けると思うのだが、言いにくい理由もあるし、忙しい母親に悩みを相談したところで、ちゃんと相談に乗ってくれるのか疑問で頼りにできなかったからだった。父親は股関節が元から少し悪かったのだが、心身の疲れが原因で痛みが悪化し、より私を叱るようになり、母もどうしたら私が学校に行くようになるのか全く分からず、困惑していたようであった。
 後になってから父から聞いた話であるが、母は私が不登校になりだしてから、寝る前に毎晩のように泣いていたらしい。この話を聞き、母に一番迷惑をかけていたことを知って、申し訳なさでいっぱいになった。当時、母は仕事人間で、家に帰ってきても自分の時間が欲しいだろうから、私の話なんかしたら、面倒くさがれてちゃんと話を聞いてくれないだろうと、諦めの思いがあった。しかし、泣かせてしまうくらいなら、ちゃんと話すくらいでもしていたら良かったと後悔した。本当に高二のときは今までの人生で一番迷惑をかけた一年であったと思う。

コース変更
一二月になり、担任の先生からこのまま休み続けると出席日数が進級や卒業に関わってくるし、最もネックである数学を中高一貫コースでやっていくのは今の学力だと厳しいのではないかと言われ、三教科型の国公立と関関同立(関西、関西学院、同志社、立命館)を目指すコースへの変更を勧められた。全く違うメンバーの中で、人間関係も勉強も心機一転し、新しいクラスでやってみないかとの提案である。
 三教科型のクラスに変更すれば、今まで悩まされてきた数学の授業を文系の私は受けなくてもよく、高一のころの数学の成績しか反映されないため、卒業のことを気にせずにやっていけるということだった。同時に、今までやってきたセンター対策のための七教科型国公立ではなく、三教科型国公立や関関同立を目指す勉強をした方が、身体への負担は少なくなるとも言われた。決断は早い方がよく、年内のコース変更を勧められた。
高二になってからは中高一貫コースにいることで、身体の調子が悪くなるほどまで、悩まされたことが多々あり、憎しみの気持ちもなかったわけではないが、いざ他のコースに行くことを考えるとなると、中一からの楽しかった思い出が頭に浮かび、全てが悪いわけではなかったとも思い、自分が約五年間も在籍した中高一貫コースに思い入れがあったのだと感じ、他のコースへの変更に、すぐに踏ん切りがつかなかった。
躊躇していると担任の先生からまた呼び出しがあり、行ってみると、「迷っている時間はないし、本当にこのまま今のコースに居続けるのだと進級できなくなってしまうのは目に見えてる。あと、自分の身体の調子にしても、七教科をこれから続けていくことは体力的にもどうか。身も心も元気な状態で勉強できることが最良。生徒たちは、中高一貫コースから他のコースに移動することは、レベルが下がったという誤った認識を持っているけど、コース変更したって友だちでいてくれるやつは本当の友人で、どのコースに行ったって、結局勉強をして志望校に行くというのは同じことやで、本当に早く決断しろ」と言われた。
三者面談があり、その場で担任の先生が親にもコース変更の説明をし、親とも相談して、年明けの三学期が始まってからコース変更をすることが正式に決定した。決定してからも、はっきりとコース変更するというふん切りがつかなかったが、仕方ないことだと割り切って、これから勉強に身を入れようという決心が最後にはついた。
そして、年末最後の授業のときに、担任の先生がホームルームの時間にみんなの前で、私がコース変更するという連絡をし、クラスの皆にもコースを変更して、別のクラスに行くということが伝えられた。

裏切りの謝罪
その事実を事前にわたしから伝えていた人は数人いたため、女子には結構知られていたようだったが、男子は全く知っている人がいなかったため、その発表が終わってから、結構仲の良かった男子の友人たちが声をかけてきて、「まじか、知らんかったし。でも、あっちに行ってもがんばってな」という声をかけてくれた。女子にはそんなあっさりとした言葉をかけてくれた子は一人もおらず、その後女子は気まずそうにするか、あえてその話題に触れないという子がほとんどだった。男子がかけてくれた言葉は軽い言葉であったが、私にとっては不思議とすごく背中を押された言葉であった。このときに、男子って友人関係とかもフランクで、自分が男子だったらこんないろいろ悩まなかっただろうにと、男子がうらやましかった。
その日の夜、寝ようとすると急にCから電話がかかってきた。そして泣きながら、「コース変更、あたしのせいやんな。本当にごめん。Bと別れようと考えたこともあったんだけど、無理だった。本当にごめん」という、弁解の電話があった。
今さら謝るのかという怒りの気持ちをおさえながら、「そういうのは理由じゃない、進路を変えるだけだから」と答え、半年ぶりくらいに普通の会話をして、電話を切った。自分でもびっくりするくらい、Cと普通に会話することができた。正直、一番大好きだった人を一番仲の良かった友人にとられるというのは裏切りであるし、一生許したくないと思っていた。しかし、一生恨むことで自分に利益はないと考え、すっきりとした関係になればいいんや、と割り切ることができた。
 そして年が明けて二〇〇九年になり、ドキドキの新しいクラスを迎える一年が始まったのだった。渡してもらった、冬休み課題を済ませ、学校が始まる一月六日は本当に緊張で、何日も前からドキドキだった。ついにその朝、新しいクラスの担任(現代文の授業でお世話になっていたため、実は何回も喋ったことがあった)、に挨拶をしに行き、新しいクラスの子が二人(その二人は当時、学級委員をしていたためだったと思う)、自己紹介をしてくれ、「お迎え」に来てくれたのだった。前いたクラスから自分の机とイスを持っていくことになり、その二人にも運ぶのを手伝ってもらった。教室に入ると、ほとんど見たことのないメンバーばかりで、一斉に視線を浴び、かなり緊張した。
以前中高一貫コースに在籍していた男子の友人二人を見つけ、少し話すことができ、うれしかった。ホームルームの時間になり、新しいクラスの担任がやってきて、私の名前を黒板に書き出し、「前で自己紹介してや」と言われ(まじか、なんか転校生みたいな扱いやん、と思いながら)、前に出て「中高一貫コースから来ました、○○です。ずっと中高一貫にいたので、こっちのクラスのことが全然分からないんでいろいろ教えてください」と言った(緊張しすぎて口がまわらず、噛み噛みになってしまったので、とても恥ずかしかったのを覚えている)。
そして先生が、「ずっと中高一貫におった子やから、まるで転校してきたみたいな気分やと思う。不安なことがいっぱいやと思うから、みんな仲良くしたってな」と言ってくれ、ありがたいお言葉だったのだが、挨拶を噛んでしまったことが気がかりで恥ずかしさでいっぱいだった。

カルチャー・ショック
一日目はお昼までの授業でどんなことをしたのかあまり覚えていないのだが、一番後ろの席であったため、どんな人がいるのかなと人間観察していた。私は中学生のとき、剣道部に所属していたのだが、近隣のいろいろな中学校の剣道部が集まる大会で何回か見たことのある元剣道部の子たちが何人かいた。少しでもつながりのある子を発見することができて、ホッとしたことを覚えている。その中の一人の子に勇気を出して声をかけ、「剣道部だったよね」と言い、一日目であったが初めてそのクラス内に新しい友人ができた。
一日目は緊張でクラスの雰囲気を知ることくらいしかできなかったが、クラス内の仲は男女共に全体的に良く(いじめではないが男子が女子をどついたり、からかうという光景を見たりした)、お弁当を食べるときも、ある一定の人とだけ集まって食べている子もいるが、ほとんどの人が自分の席から離れず、男女問わず、近くの席の人と話しながら食べていたのに、良い意味でカルチャーショックを受けた。席を移動するのが面倒だということもあるが、もとある友人関係に固執せずに自分の席に座って食べる姿勢を見て、なんて気が楽そうなクラスなんだろう…と思ったのを覚えている。
また、女子間でもはっきりと物事を伝え、女子特有のねちっこい関係というものが全く見られなかった。自分が今までいたクラスと対照的な部分が多く、数日で新しいクラスのことが好きになり、もっとクラスの子たちと仲良くなりたいと思うようになった。
 そこからは人見知りをしないように心掛け、授業は現代文と世界史は文系メンバーで受けるのだが、その文系メンバーと仲良くなり、友だちの輪も広がっていき、最初の一週間は不安でいっぱいだったが、学校が徐々に楽しくなっていった。勉強の方も、落ち着いて打ち込むことができ、最初のテストもまずまずの出来であった。三年の一学期が終わるころにはクラスの全員と話せるようになり、女子だけでなく、男子の仲の良い友人も何人かできた。男子の友人が何人かできたことで、いじられキャラが定着し、何回もしょうもないことで皆にいじられていた。
友だちとの付き合い方も以前とは変わり、特定の人と仲良くなるのではなく、いろんな人とかかわり、話すことで自分に合った子とさらに仲良くなっていこうと思い、新しいクラスに入ってからは友人関係で悩むことはほとんどなかった。男子のようにさっぱりした性格の女子が多かったことも理由であると思う。楽しい思い出が多くありすぎて、どれか一つを選んで書くことができないくらいだ。

「ありがとう」
長々と書いてしまったが、コース変更し新しい環境に行くことで私は、自分も新しい自分にすることができた。友だちの付き合い方や授業への取り組み方も変わったし、今までの細かいことに固執する自分の視野の狭さを実感し、視野を広く持てるようになった。そして、両親からは、学校に行くのが楽しそうになったし(実際にコース変更してから、欠席したのは二、三回ほどしかない)、のびのびしているし、本来の私の姿になったのではないのかと言われた。
コース変更することになった理由は、端的に言えばBやCのせいであったが、このコース変更がなければ私は、世界が狭いまま今に至ったのではないだろうかと思う。そう思うと、辛い思いをしたが、逆に二人には新しい環境に行くことにさせてくれて、ありがとうという気持ちになれた。
クラスが替わって、毎日、本当に楽しく過ごせたのは、自分の力ではなくて、先生やクラスのみんなの人のよさのおかげであったと思う。消費者金融か何かのCMで、「ピンチをチャンスに」という言葉を聞いたことがあるのだが、この件に関しては、まさにこの言葉が当てはまっていると思う。どんな状況も自分にとってマイナスになりえるし、プラスにもなりえるのだということを学べた。
 コース変更してから仲良くなった男子女子含めた友人たちとは、今でもツイッターなどでよく話したりするし、飲みに行ったり、大阪方面に行ったときに遊んだり(ほとんどの友人が京阪神方面の大学に進学したため)、大きな休みがあるときには必ず誰かに会うほど、今でも仲良くさせてもらっている。そして、毎回と言っていいほど、私の何かに対してツッコミが入り、いじられる…(笑)。
 一方、中高一貫コース時代の友人で頻繁に連絡をとるのは一人だけである。しかし、無理して合わない人と付き合うことの方が苦痛であるので、一人の友人と連絡がとれて気楽に二人だけで会うので、私にとっては充分であるし、この一人の友人を通して、男子二、三人が主催してくれる飲み会に誘われるので、友だちは少なくても案外大丈夫だし、楽しいです(笑)。

編入試験の合格
 私は高校を卒業後、Y県にある公立短期大学へ入学した。高三のセンター試験を大失敗し、志望していた三教科型の国公立の二次試験を受験することはできなかった。また、「関関同立」の一般入試もいくつか受けたのだが、全て失敗した。私の通っていた学校は大学附属であったため、内部生の特権としてその大学の試験を校内で受けることができ、そこで一つ合格を得た。しかし、私立大学の入学金や授業料を知り、唖然とし、親には私立に行かせることはできないと言われた。
そこで公立の短期大学や大学校があることを知り、センター試験が終わってからの時期でも出願でき、自分の興味あることに少しでも近い、学校を必死に探した。そこでヒットしたのはX短期大学部というところと、私が後に入学することとなったY短期大学だった。どちらにも出願をし、Xの方はセンター試験の結果利用方式で、Yの方は独自一般試験があるとのことで、Y県までZから新幹線に乗って出向き、試験を受けた。
結局どちらも合格し、より自分がしたいことに近いことが学べるY短大の方に入学することに仮決定した。しかし、Y県は遠すぎるし未知の場所であるし、周りが皆四大に行っている中、短大にいくのは…という思いがあり、浪人することも考えたのだが、浪人も賭けであるし、お金が私立に行く並みにかかると言われ、私の性格的にも追い込まれるのはやっていけないだろうということで、浪人は反対された。
そして、Y短大の入学金振込二日前まで悩み、パンフレットを眺めていた。すると、短大から四大へ編入する制度がありことを知り、短大を出たら就職して終わりとしか思っていなかった私にとって希望の光が見えた。親にもそのことを話し、絶対に合格できるか分からないけど、短大に入ってから編入試験に向けてがんばってみようと思うから、やはり九州の短大に入学するという意思を話した。親もこのご時世で就職するなら四大を出ていた方が良いと考えていて、絶対に最後まであきらめないという約束で短大に入学した。
 入学してから、何も知らない地での生活は本当に慣れず、ましてや住んだこともない九州で実家から片道で半日もかかる場所にYはあるため、普通の土日休みに帰ることは無理であるし、新幹線を使うとなるとお金がかなりかかるので、大きな休みのときくらいしか実家には帰ることができず、寂しい思いを一年の前期はよくしていた。しかも、私の通っていた短大は地元、Y県の高校からの入学者が多く、同じ高校同士で友人も固まってしまうため、本当に前期のころは友人ができず、大きな休みに地元に帰り、高校の友人たちと遊ぶことが楽しみの一つであった。
 しかし、夏休み明けにアルバイトを始めたこともあり、徐々に土地にも慣れていき、後期からは気のあう友人やサークルの友人ができ、だんだんと学校が楽しくなっていった。
 そうこうするうちに、進路決定の年の二年生になり、私は短大入学のきっかけとなった四大への編入である進学を迷わず選択することにした。二年になり、授業は一年のときよりは少なかったが、厳しい研究室であったため卒論の準備が大変で、しかもバイトも結構入っていたので忙しい毎日を送っていた。九月くらいから編入試験が始まるため、夏休み前くらいには大体の編入試験で課される、英語と小論文の勉強を開始し、夏休みはお盆くらいしか、実家に帰らず、夏休み中は毎日図書館に通うようにした。
 そして、面接の練習もいろんな研究室の先生に練習に付き合ってもらい、小論文の添削も何回もお願いし、数をこなして慣れていった。D大が第一志望であったため、夏休み中に開催されたオープンキャンパスにも行き、アポをとっていた教授の研究室にお邪魔し、D大のいろいろなお話を聞くこともできた。

祝福
 その甲斐あってか、滑り止めで受けていた大学も合格し、第一志望であるD大に合格することができた。高三のころの私では、センターの点数が足らず絶対に行けなかった大学に合格することができて、自分でも本当にびっくりした。合格発表の日の夜に父に電話すると、今までにないくらい喜んでくれた。そして、卒業後も進路のことを何かと気にかけてくれていた、高二、高三からの担任にも電話をし、合格報告をするとても喜んでくれ、これから頑張るんやでという言葉をかけていただいた。
 また、研究室の先生にも「本当によかった! すごい! おめでとう!」と言っていただいた。高校のときの友人や短大の友人も合格を自分のことのように喜んでくれ、自分の合格だけでこんなに多くの人を喜ばすことができるということが何よりもうれしかった。
 この編入試験への合格を機に、一つのことに対して目標を持ってそれに向かってがんばるという姿勢がいかに大事かということを学んだ。そして、正直高校生の自分は不完全燃焼であったな、と思ったし、努力しなければ何もつかめないことを実感することができた。
 また、編入試験によりD大へ入学できたことで、留学生支援サークルに入り、私の長年の夢だった外国人留学生と友だちになるという夢がかなった。後期になってからはしていないが、留学生チューターをすることで、日本語を教え、相手の国の言葉も勉強できるという貴重な体験をすることができた。
 そして、学部はバラバラであるが、自分と同じ編入生という立場で親しくなることができた編入サークルの人たちとの出会いが、私の学校生活を充実させてくれている。そのサークルの中で知り合った友人はこれから卒業してもずっと仲良くしていきたいと思える人たちばかりであるし、その中で出会えた今の彼氏との出会いは本当に編入したからこその出会いだった。
 自分史を書いて自分の二一年を振り返ってみると、あのときはこう思っていたが、今は違うといったことが多かったし、自分が少しずつでも成長しているなと感じた。また、今いる周りの人を大切にしていきたいと思った。そしてこれからも「ピンチをチャンスに」変えることができるような人生をおくっていけたらと思っています。
 

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室