語られたストーリー
2012.02.29 寝屋子と寝屋親を体験した漁師のはなし 語り手 (男性 63歳 2010年取材)

 【あらまし】

 三重県鳥羽市の答志島では、古くからある寝屋(子)制度が今も続いている。中学を卒業した男子を地域の世話役の大人が預かって面倒をみるという風習である。世話をする家を寝屋、その家の主人を寝屋親、預けられる男子を寝屋子と呼ぶ。かつては寝屋子になると、毎日、寝屋で暮らしていたものだが、現在では週末の一日か月に一度くらいとずいぶん変化している。
 漁師の志島さん(仮名)は昭和二十二年生まれ。寝屋子になったことがあり、今は地域の四人の子どもを預かる寝屋親でもある。寝屋親を引き受けると、約十年は自宅の一室を寝屋として提供し、その後、寝屋子とは一生のつき合いになる。志島さんは自分の年齢を考え、息子が引き継ぐことを条件に寝屋親になった。
 預かっている寝屋子の四人のうち二人はすでに漁師として活躍し、彼らの結婚を志島さんは気に掛けている。
 バッチ網漁をしているので、志島さんは経済的には安定している。息子が跡を継いでいるので、後継問題に悩むこともない。志島さんが語る寝屋制度には、人と人との結びつきを大切にする島の文化が息づいている。
 
●小見出し  
 自分の家族
 寝屋子の暮らし
 昔の寝屋子たち
 現代の寝屋の生活
 朋友会とのきずな
 寝屋子の結婚
 答志島の女たち
 漁師の暮らし
 GPS・魚探機を使う時代に
 これからの寝屋制度
 
自分の家族
 自分は、昭和二十二年生まれなので、今年で六十三歳です。家族は八十代の両親、自分たち夫婦、三十代の息子夫婦と子ども二人、それに二十代の独身の娘の九人家族。家業は漁師で、父は二代目、自分は三代目、息子は四代目。
 答志には、昔から寝屋子の制度があってな、中学を卒業した長男を十年間くらいよその家で預かってもらうのや。寝屋子たちは、寝屋子をやめたあとも朋友会に入り、一生の付き合いになるんさ。
 いま、寝屋の子どもの面倒をみとるんやけど、その子たちが結婚するころになると、自分らは七十歳を過ぎてしまう。そうなると、仲人を務めるのは、なかなか大変や。どうしても息子と二代にわたって寝屋子の世話をせなあかんことになる。それでまず、息子ら若夫婦の意見を聞いたんさ。
 息子は寝屋子の経験があるから、よう分かっとる。しかし、嫁はよその土地から来たからな、嫁の気持ちも大事にせなあかん。そう思って相談したんやが、息子らは、「ええよ」って言ってくれた。それで、引き受けたんさ。
 
寝屋子の暮らし
 この答志島では、寝屋子をしたことがない子って、おらへん。みんな、どっかの寝屋子を経験している。
 平成十五年の秋、家を新築したんさ。三階建てにな。それで、寝屋子を置く部屋はあったんや。
 答志島には、答志と和具、桃取の三つの地区がある。自分の住む答志地区は、長男が中学三年になると、親たちは息子を預かってもらう寝屋親を探すんや。自分も、ある親御さんから、「あんたんとこ家を建てたばかりやろ。もし寝屋があったら、子どもの面倒見たってくれへんか」って頼まれたんよ。それで息子の嫁さんにも話して、四人の中学生たちの家族とも相談して、寝屋親となるのを引き受けたんや。
 平成十九年四月から、うちの二階の六畳間で、四人の寝屋子らが暮らしている。今年で二十歳になる。
 その子らが高校のときや。二人が野球部に入っとってな、毎日帰りが遅うなるもんで、親御さんらは答志島の桃取まで迎えに行っとった。鳥羽の佐田浜港と答志島の間は巡航船が行き来しているけど、鳥羽の最終便は午後八時。しかし、この便は答志港ではなく桃取港に着きよる。その子らの親御さんは、その時間に桃取まで車で迎えに行くわけや。そうせんと、鳥羽にアパートを借りて下宿させなあかんからな。
 そこで五、六年前かな、自分らが町内会の役員をやっとるとき、午後八時台に船を出して欲しいって市に陳情して、ようやく船が巡航するようになったんや。高校で運動クラブをしている子らは、ほとんどがこの最終便で帰ってくる。
 四人のうち二人は、高校を卒業したあと答志に残り、漁師をしている。ほかの一人は商船高校に進学、もう一人は名古屋に出て医療検査技師の専門学校に通っとる。
 その子らは自分のことを「オヤジ」と呼ぶし、女房のことを「カアサン」、息子のことを「アニキ」と呼んでる。
 自分の家の出入りは、いつでも自由なんさ。カギなんかかけてないからな。寝屋子たちは、友達を連れてくることもある。許可も何もいらん。朝来たり、晩遅く来ることもある。たまには、娘さんを連れてきて、にぎやかに遊んどるよ。変なことになんかならへん。男女交際が開けてきているんやなあ。親の家には女の子をよう連れていかんけど、寝屋親のところには、気軽に連れてくるんさな。「結婚するときは、ちゃんと報告しろよ」と、いつも言っとるんや。
 自分はな、寝屋子の結婚のことがいちばん心配なんさ。漁師をやっていると嫁さんが来(こ)んからな。
 寝屋子は、よう働くんや。でも、「遊ぶときは大いに遊べ」と言うとるんさ。答志には、真面目な子が多いで働いてばっかりや。真面目な子ほど、結婚が遅い。そんな子らには、「精いっぱい遊べ」って言ってるんや。まあ、この頃の子どもらは、休みになると鳥羽の町に出て、市営駐車場に預けてある自分の車で遊びに行くんさ。
 いま、寝屋親している人はだいたい漁師やな。サラリーマンや商売している人もいるけど、どちらにしても、家が大きいないとあかん。自分のように、家を三階建てにして寝屋親を引き受けているのも多い。二代にわたって寝屋親をやっている人もいる。
 
昔の寝屋子たち
 自分が寝屋子になったのは昭和三十八年、十五歳やった。答志には若者が多くてな、年齢(とし)が三つ四つ上や下の子らと同じ寝屋やった。上下関係は、ものすごくビシッとしてた。答志には寝屋が三つあったよ。
 その頃は、毎晩、寝屋の家で寝てた。朝、起きられんときは、その子の親が起こしに来とったなあ。
 中学を卒業したころは、六人が漁師になって寝屋におった。三年後、高校に進学した子らが四人入ってきて寝屋は十人になった。六畳一間に十人寝とったんさ。一間に十人。部屋にはクーラーがないので、暑い頃は、蚊帳を吊ってた。自分の布団は、家から持ってきた。早よう寝る者から順番に布団を敷いていく。そして、朝早く出て行く者は、自分で布団立ててそっと出て行ったもんや。
 当時、雨が降ったりなんかしたら、その日は沖に出られへんから、そのままごろ寝しとった。
 旧正月の三日間、八幡神社で行われる神祭は答志地区最大の祭りや。島中えらいにぎやかになる。答志の人たちは、みんな踊り芸者になり、舞台で踊るのもいる。
 寝屋子たちは、祭りの前から友達と一緒に若い娘のところに遊びに行く。演芸も盛んやったから練習もある。それが終わると夜中の十二時過ぎ。それから寝屋に帰っていくんさ。オヤジさんらは心配やから、寝やれやせん。寝屋子らが夜遅くまでワーワー騒いどる。寝屋の奥の部屋がオヤジさんたちの部屋やから、よけい聞こえる。それで、「朝早よう沖に出なければならんのに、どうするんや」ってカンカンになって怒られたんや。
 ちょうど十年経って、寝屋子を解散するときには、部屋の壁に貼ったポスターをはずしたり、壁を塗ったり、部屋の畳も壁紙も張り替えたんや。そして、「ありがとう」と礼を言って世話になった寝屋を出た。十年も寝泊まりさせてもろたんやからな。
 
現代の寝屋の生活
 いまの寝屋子は、一か月に一回、金曜日の夜か土曜日の夜に泊まりに来るだけ。あとは、神祭の前後に一週間くらい泊まりに来る。毎日はやって来(こ)ん。うちは、いつ来てもええようにしてあるけど、今は昔と違って子どもらに個室があり、テレビもある時代や。よその家に寝に行く必要がないかもしれん。
 うちの寝屋子らも、高校のときは土曜日ごとに泊まりに来とったが、高校卒業して大学に進学すると島を出て下宿生活になり、寝屋に来てみんなで寝ることがなくなった。高校生の頃は四人とも青年団で仲良く活動してたけど、今青年団で活動しているのは、漁師を継いだ二人だけや。
 答志では、「寝屋子ぶるまい」がある。寝屋子たちが集まる最初の日に盛大にする行事や。寝屋子らは、満二十五歳になると青年団を退団する。自分らの頃は、二十五歳までに結婚して、それで寝屋から出て行ったけど、この頃は、ほとんど二十五歳過ぎたくらいに、最後の「寝屋子ぶるまい」をするんや。
 いまは十二月三十一日に、寝屋子全員が寄りやすい日に行っている。みんなに鯛を付けてたけど、何年かあとには、カツオの初物をこの日のために残しておいて使うようになった。
 寝屋子らは、満二十五歳ころになると青年団を退団する。自分らの頃は、二十五歳までに結婚して、それで寝屋から出て行ったけど、この頃は、ほとんど二十五歳過ぎたくらいに、最後の「寝屋子ぶるまい」をするんや。
 
朋友会とのきずな
 兄弟の人数が少ないとか、おらんときには、寝屋を置くのもいいなって感じになる。寝屋子を置くとみんな兄弟のようになるからな。子どもやからええこともするし、悪さもする。しかし、みんなで助け合おうという気持もあるんさな。
 冠婚葬祭は、寝屋子で組織する朋友会で仕切るんや。寝屋のおじいさんやおばあさんが亡くなると、棺桶を用意して、みんなで穴を掘る。そういうのも全て寝屋子の朋友会でするんさ。結婚して子どもが生まれると、寝屋親が鯉のぼりを贈って祝福する。
 家を新築するときも、寝屋子が瓦を葺(ふ)いたり壁を塗ったりやっていた。人手がいるようなときは、朋友会に声をかけると寝屋子がすぐに集まってくれたもんや。「船降ろし」のときもそうや。木造の船を港から海に降ろすのにも大勢の人手がいる。そのときも寝屋子を呼んできて、降ろしてもらったりするんさ。
 朋友会の人たちとは、旅行もよく一緒にすることがある。息子らは、一か月に一回は家族ぐるみで集まってるようや。
 答志から嫁に来ている娘さんなら島の風習も知り、友達もいるけど、大阪や名古屋から来た嫁たちは島の人たちとのつながりがない。それではあかんということで、息子らは嫁さんたちのハケぐちになるように、みんなで寄ってワーワー楽しめる集まりを考えたみたいや。男らは一杯やりながら、嫁さんらは子育ての悩みなんかを話してる。場所は仲間の旅館の大広間や。
 
寝屋子の結婚
 自分は二十七歳で、息子も同じ年ごろに結婚した。答志では、みんな二十五歳の厄年の前に結婚していたな。しかし最近は三十歳過ぎに結婚する子もいる。
 結婚するには、寝屋子のオヤジが中に入って娘さんの家に、「どうですか」と声をかけんことには始まらん。答志島では仲人が二組必要なんや。おじさん、おばさんが一組。寝屋子のオヤジ夫婦が一組。今でも二組が「仲人」になる。
 自分が預かっとる寝屋子らは高校生。あと十年もすると結婚することになる。しかし、そのころ自分は七十歳をまわる。その年で仲人を務めるのはしんどい。だから息子には、「お前らがやってくれよ」と頼んである。
 かつてテレビで紹介されたが、答志には、「食い合い」の儀式がある。結婚する二人が互いに三口くらいご飯を食べさせるんや。自分らの頃は、招待する客一人ずつに膳が出てたな。大きい家の場合は自宅の広間でやってたが、人数がだんだん増えてくると、旅館とか、ホテルでやり出した。
 結婚式も、最近は、派手になってきたな。自分らの時代は、もうちょっと質素にと思ったけど、子どもら世代は盛大にやりたいと思っているようや。息子のときは、鳥羽市のホテルに百五十人くらいお客を呼んだかな。寝屋子の仲間、朋友会のメンバー、親の朋友会、親戚などを招待するとずいぶん大勢になる。
 
答志島の女たち
 息子の嫁は、よその町の出身や。答志へ嫁に来るときは、「結婚したら、すぐに海女になって船に乗るのか」と心配しとった。昔はそうやったが、いまの時代、海女になるとか、船に乗るとか強制する時代やない。「そんなことは絶対にないから」と約束して安心させたもんや。
 自分らの頃は、女のほうが多かった。青年団には百三十人もおったけど、そのうち八十人が女やった。青年団の活動をしながら、そこで相手を見つける。自分らの頃は、ほとんど、答志の娘が結婚相手やった。寝屋子は夜になると娘さんのいる家に遊びに行く。「娘遊び」と言うんやが、そこでええ仲になる。ほとんど結婚に結びついてたなあ。
 二月の神祭からお盆まで、答志の娘は習い事をしたり、海女の練習をしたりして半年間過ごす。八月の一か月は海女の練習や。磯桶(いそおけ)は、嫁入り道具みたいなもんやった。昔は、海女をしない娘は答志におれんかったから、ほとんどの娘は海女になった。自分が結婚した頃は、そういうふうやった。
 盆が過ぎると神祭までは、名古屋や大阪へ半年くらい働きに出る。そして二月の神祭になると答志に帰ってくるんや。
 このごろの娘らは、高校を卒業すると島を出る。そして就職するんやが、なかなか半年で辞めて帰って来るなんていうことにはならんのさ。寝屋子が高校に進学するようになってからは、自分らの頃のような風習は、だんだん消えていったんや。
 最近は、八割が答志の外から嫁を迎えるようになり、今までの風習を続けとったら嫁が来んようになってしまう。
 いまでは答志出身の娘でも、結婚して十年くらいは船に乗らずに子育てや。小学校に入って手がかからんようになってから船に乗るくらい。新婚からは船に乗らへん。最近の若い娘らは海女を敬遠している感じやな。
 「夫婦(めおと)船」で沖に出たとき、金になるので海女を兼業ですることはある。夫婦船って言ってな、答志島では、夫婦一緒に沖に出て漁をするのが当たり前やったけどなあ。
 
漁師の暮らし
 若い人たちは、朝三時起きで仕事に出る。荷揚げの冷蔵氷を積み込む作業があるので、答志港を出航するのは五時頃になる。一つの網を二つの船で引っ張るバッチ網(漁)は、市場の値段がほぼ安定している。水揚げのいいときとそうでないときがあるが、白子や白塚の港で買い取り値段の情報を聞いて高い方に持っていく。答志港に帰るのは午後一時頃になる。
 漁場の情報を仲間と交し合って、高い買い値のつく白子漁港や白塚漁港に運ぶんや。それが若い漁師たちの仕事になっている。
 漁に出るのは三十分でも四十分でも早いほうがええ。氷を積まんならんからな。自分らも息子らもそうやけど、早よう魚がいるところに回らなあかん。そして、漁に出ている船にも情報を流して、こっちがええ、あっちがええと判断する。
 網を揚げて魚を積むと、若い人らは答志と白子港、白塚港の三か所に電話をかけて、一番高い値の港に持って行く。
 若い人が学校を出て、船を操作したり網を取ったりできるようになるまでには半年くらいかかる。自分らで沖のことを判断しなければならないから、若い人らには毎日が勉強や。
 答志で生活ができなければ若い者は島に留まらない。島から出て行ってしまう。このごろは高級魚の値段が以前に比べて半値に近くなっている。一本釣り漁は難しい時代に入ってきたなあ。だから、高校を卒業した息子に漁師を継がせるのは、なかなか難しくなってきた。
 自分と息子は、バッチ網漁で生計を立てている。答志地区のバッチ網船は十六船団、三十二船が活動している。寝屋子の二人も、バッチ網を親御さんとペアを組んでいる。バッチは、だいたい親子が多い。
 寝屋子の二人は高校を卒業してすぐに船に乗っている。漁については、はじめは親が教えるけど、若い子は覚えるのが早い。すぐに一人前になる。
 昔は夫婦船が多かったけど、バッチ網漁が普及してからは、男たちだけで漁をすることが多くなった。今は四年制大学を出て答志に帰って漁師になっている者もいる。高校を卒業して、よその町で就職していた漁師の息子が戻って跡を継いでいるケースもある。
 バッチ網は比較的収入が安定している。生活が安定しないと後継者がいなくなってしまう。答志では、昔は長男が後を継ぐのが当たり前やったが、最近はそうでもない。
 
GPS・魚探機を使う時代に
 今の漁は、人工衛星を利用して魚がどこにいるかを調べるGPSを使っている。昔は、山の二点の位置を覚えたり、大潮小潮で決めたりしていた。そういう経験を積んだものだが、今は若い者が機械を操作して情報を収集、仲間と連携して魚を取っている。
 「ちりめん」などを荷揚げするときは、お互いに助け合っている。かつては、漁師によって漁獲量の多い少ないがあったが、今ではどの船も大体同じくらいの漁獲量になっている。漁場や市場の様子をすぐに伝え合っているからや。だから、GPSの魚探機の操作を覚えたら誰でも漁師になれる。
 自分らのころは、周りの船には情報を伝え合ったりしない。漁が終わればわかってしまうけどな。だけど今の若い者たちは、本当のことを教え合っている。息子らの時代になってだいぶ変わってきたな。
 
れからの寝屋制度
 寝屋子と一生つきあうという答志の風習は、これからも続いていくと思うよ。寝屋子制度はあった方がいいと思う。
 結婚するときも真っ先に寝屋のオヤジに相談するという慣習は、今も続いている。寝屋親には責任がある。結婚したあとのトラブルなども、自分の親よりも、まず寝屋のオヤジに相談して間に入ってもらうほうがうまくいく。
 寝屋というのは、十代、二十代のころだけではなく、寝屋を解散してからも、一生続いていく。だから、寝屋親と寝屋子の家とは、兄弟や親戚同様の付き合いとなる。
 これからも息子らは寝屋親になって寝屋子を預かるやろな。たとえ漁師やのうても、答志を出て行ってもな、寝屋子とは一生の付き合いをせんならんという思いが、みんなにはあるんや。
 これからも寝屋子の風習はぜひ続いてほしい。寝屋子制度の中身は、その時代にあったものに変わっていくかもしれんけど、やっぱしあった方がええな。
 

 

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運営:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部「ライフストーリー文庫~きのうの私~」編集室