Sugiyama 人間になろう 椙山女学園歴史文化館

最新のコラム

来館者が語る椙山での青春時代

 

 本館の歴史展示室には「生徒の活動」として「生徒会新聞」やクラブや生徒たちの自主発行誌、遠足の記念絵葉書、そして1936年のベルリンオリンピックの日本人女性初の金メダリスト前畑秀子氏に関する資料が多数並んでいます。
先般、前畑氏をよく知る中川佐和子さん(椙山女子専門学校附属高等女学校・昭和16年度卒業生)が来館され、当時の様子を語っていただきました。
中川さんは前畑氏と同じ和歌山県出身で地元の小学校を卒業後、昭和11年椙山女子専門学校附属高等女学校に入学。幼少より郷里では水泳の実力を発揮しており、水泳部特待生として水泳部に所属されました。当時から椙山の水泳部は強豪として名を轟かせており、中川さんも1938年の第4回名古屋京都対抗女子水上競技大会にて200メートルリレーで第二泳者として参加、3メートルの差を広げ、2分15秒の日本新記録を樹立するなど、活躍の一端を担っていました。
当時は創設者・椙山正弌の自宅2階を寄宿舎として使用しており、寄宿舎生は正弌、今子と同じ内容の食事を摂り同じお風呂に入り、正に寝食を共にする毎日を送っていました。中川さんも5~6名在籍していた寄宿舎生の中の1人として昭和12年までの1年半の間、前畑秀子氏と同室で共に生活しました。「8歳上の前畑さんには残念ながら直接水泳の指導は受けていませんが、妹のように「佐和ちゃん、佐和ちゃん」と言ってかわいがってもらいました。」水泳部の練習は厳しく時には1日8000メートル泳ぐ日もあったそうです。
中川氏さんは授業で使っていたノートやテスト回答書から賞状に至るまで、今では貴重な資料となるそれらのものをひとつひとつ丁寧に保管されていて今回はその中から実際に使用されていた水泳部水着の学園章部分と上級女子体力章を寄贈していただきました。
水泳部の集合写真を前に幾人かの級友の名前を挙げられて、当時の出来事について目を細めて話される様子はまるで女学生に戻ったように生き生きとしていてとても印象的でした。
 
 

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以上は「歴史文化館ニュース第6号」に掲載されたものです。

来館者が語る椙山での戦争の時代

 

 本館の歴史展示室には「戦争・学徒動員」の展示ケースがあります。そこには当時実際に使われていた「学徒戦時奉公隊腕章」や学園が戦後、県に提出した「学徒動因に伴う死亡報告」や爆死した学徒動員の級友と恩師に捧げる「追憶の書」など多くの資料があります。

 過日昭和2年生まれの卒業生(椙山女子商業学校)久野静子さんがご家族とともに来館され、展示物を見ながらご自身の体験を語ってくださいました。以下に概略を紹介します。

「・・・戦争のため修学旅行は取りやめになり卒業も3ヶ月の繰り上げ卒業だった。在学中は“椙山隊”という名前で三菱重工航空機の工場で3年ほど働いた。飛行機を作っていた工場であったため米軍のB29から集中的に攻撃を受け、その際には三菱の防空壕に逃げていた。あまりの激しい空襲のため近くの大江橋を渡って道徳にあった倉庫に逃げたこともあった。空襲が収まると疎開先の横須賀(東海市)まで歩いて帰った。また飛行場で女子挺身隊として怪我をした兵隊の受付や、病院へ運ばれる死体や重病の人々の名前や住所を衣服の名札で確認し書き取る手伝いもした。昭和20年の8月15日急に全員が集められ「12時のラジオ放送」を聞いた。その場には兵隊も整備兵も女子挺身隊もいた。敗戦そして終戦を知らされると皆泣き、中には切腹すると言い出した人もいた。皆アメリカ人がやって来て殺されるのだと思っていた。終戦から暫く経ち、満州に行っていた兄が帰ってきた・・・・・」
 いろいろな歴史資料を興味深くご覧になり思い出は尽きないというご様子でした。スタッフ一同、改めて戦争について考える機会となりました。

 

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 以上は「歴史文化館ニュース第4号」に掲載されたものです。

 

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