Sugiyama 人間になろう 椙山女学園歴史文化館

2011年2月アーカイブ

【歴史展示室トピックス 4】 <「糸菊」とその歴史>

 

【歴史展示室トピックス 4】 「糸菊」とその歴史

 

「糸菊」は学園が発行する各学校・付属機関・同窓会の1年の活動内容が詳細に掲載された年刊誌として馴染み深いものとなっていますが、「糸菊」が発行される前にはその前身にあたる「糸櫻」という刊行誌がありました。
 「糸櫻」は明治39年に創刊され、和風会(今でいう生徒会や同窓会の母体)が発行していた月刊誌で、名古屋裁縫女学校内の<しだれ桜>と裁縫で欠かせない<糸>にちなんで命名されました。当時の内容は創設者・正弌氏をはじめ教諭による論文や生徒達の作文や俳句が掲載され、文芸色の強いものでした。大正2年に大正天皇と皇太后が名古屋にご宿泊された際、本学の生徒が手芸の糸菊の造花を献上した事をきっかけに「糸菊」と改名しました。
「糸菊」は昭和19年から昭和23年の4年間は戦争のため休刊していますが、昭和24年の大学開学を機に復刊し、大学開学の特集が大々的に組まれました。後の昭和51年(1976年)の「糸菊(創立70周年記念)」で、「糸菊詩に思う」の中で須田昌平教諭がこの復刊第一号について「表紙は栄養失調のような蝶々が3匹で、中身も28ページしかなく、わら半紙のような紙質であり、お粗末この上ない姿の糸菊である。しかし、考えてみるとこれは無残に踏みにじられた若草が地下に細々と命をつなぎ、世の光に再び新芽を吹き出したように感じられる」と困難を伴って復刊した当時の学園の苦労を振り返っています。
現在、椙山歴史文化館では「糸櫻」創刊号から「糸菊」2010年版までの全105冊が整然と並んでおり、表紙絵は生徒の作品によるものが多く、表紙からも時代の移り変わりを見て取れます。「糸菊(糸櫻)」は創設以来、椙山女学園の歴史を物語る存在であり、椙山女学園に関わるすべての人々と共に現在もその歴史を刻み続けています。
 
 
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【歴史の窓 2 】 小倉遊亀と椙山女学園

 

 

 小倉遊亀(旧姓溝上)は、上村松園とともに日本を代表する女流画家のひとりであり、明治28(1895)年3月1日、滋賀県大津市に生ました。大正6(1917)年、奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)に入学し、ここで図画の教師であった横山常五郎に絵の指導を受けています。
遊亀は、大正8(1919)年5月から翌年3月まで、当時の椙山高等女学校に国語の教諭として着任しました。事実、在任中の大正9年版の卒業アルバムの教員写真(右写真)にその姿をとどめています。1年足らずの短い間ではあったが、授業だけではなく「校友会」の役員として雑誌部の部長を務め、『糸菊』大正八年号の編集および発行の代表者として奥付に名前を残しています。
その後、大正9(1920)年には、横浜の捜真女学校の教師となり、安田靫彦に師事しました。そして、大正15(1926)年には「胡瓜」が第13回院展に初入選しました。
戦後の小倉遊亀は、院展に優れた作品を次々に出品し、数々の受賞に輝いています。昭和55(1980)年には文化勲章を受章しました。女流画家としては昭和23(1948)年の上村松園以来のことでした。
平成12(2000)年7月23日、105歳の長寿を全うして逝去しました。
 
 

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